金嬉老裁判証言集〜佐藤勝巳(前編)

元日本朝鮮研究所事務局長で『朝鮮研究』編集長も務めた佐藤勝巳(1929年〜2013年)は晩年、救う会北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)の初代会長を務める一方で金嬉老を非難するようなコメントも残したようだ。

それでは金嬉老裁判当時は佐藤勝巳はどのような発言をしていたのかを裁判の証言で確認してみたい。



1972年1月18日
証人 佐藤勝巳
年令 42年
職業 研究者
住居 (略)


速記録

山根二郎弁護人 佐藤さんは特別弁護人として、ここのこの裁判で終始かかわっておられますので、くわしいことはおたずねしませんけれども、佐藤さんの現在の主たるお仕事は何になるわけでしょうか。

証人 朝鮮問題を研究しているということでしょうね。

山根弁護人 それは一定の機関といいますか、研究所というところですね。

証人 ええ、日本朝鮮研究所。

山根弁護人 日本朝鮮研究所では、いつごろから仕事をなさっているんでしょうか。

証人 65年の8月ころでしょうか、そこの事務局長になったわけです。

山根弁護人 現在もそうですか。

証人 ええ。

山根弁護人 おもな著書、あるいは著作物をおっしゃっていただきたいと思いますが。

証人 たいしたものではないんですが、『在日朝鮮人の諸問題』という本があります。それから『朝鮮統一への胎動』という本がこれは共著ですがあります。著作物といえばそんなところで、多少それとは関連するところでは、自分のところの研究所の機関誌の編集責任者、これを四年くらいですか、やっております。

山根弁護人 なんという機関誌ですか。

証人 『朝鮮研究』。

山根弁護人 佐藤さんは朝鮮問題にかかわれるようになってから、何年くらいになるでしょうか。

証人 1957年ころからですから、かれこれ15年くらい。

山根弁護人 どういうことから朝鮮問題の研究にかかわられるようになったんでしょうか。

証人 57年、58年ころというのは、在日朝鮮人が、朝鮮民主主義人民共和国に帰国をしたいと、こういうふうな要望が全国で澎湃としておきてきて、それが日本人の若干の人たちにも運動協力をする、して欲しいという要請があって、当時私はある団体のこれは商業関係なんですけれども、団体の役員なんかしておりまして、そこの渉外関係の役職にあったりして、在日朝鮮人の人たちと接触をもつようになりました。したがって研究というよりも、以後ずっとそういう関係をもってくるんですが、むしろ、65年までは文字どおり運動に関係しておったわけです。65年から今の研究所の事務局長としてなるわけで、それからでしょうね。研究というのは何なのか、自分でもよくわからないんですが、それらしい機関に勤めましたから、何かやっていると、こういうことでしょう。

山根弁護人 運動にはいられて、さらに研究活動をはじめるということになった佐藤さんの契機とでもいったものは何でしょうか。

証人 朝鮮問題にかかわるようになった契機というのは、きわめて偶然的な要素が多いわけです。何か立派な大義名分があるなどということではありません。たまたまさきほど話しました商業団体の役員におって、そこの渉外関係の仕事を、役職をしておって、朝鮮人との接触をもつようになったということですから、そこからあと、いろんな変化はあるわけですけれども、契機というのは聞かれれば偶然的だということになると思います。

山根弁護人 偶然にはいられて今日まで朝鮮問題といいますか、あるいは在日朝鮮人問題に終始かかわられてきたということはなぜなんでしょうか。

証人 そういう質問をよくされるんですけれども、聞かれるわけですねえ。なんかうまくそこら一言では表現できないんで、当初は何がなんだかわからないでやっておったんですが、二、三年たちますと、なんかこの問題というのは、非常に重要なんじゃないかなということを強烈なかたちでおしえてくれたのは日本人だったわけです。それは私が明けても暮れても在日朝鮮人問題であるとか、その他朝鮮のことを言っているわけです。とりわけ61年、2年というのは、日韓会談が当時いろいろ問題になってきたときで、道なんか歩いていますと、向こうから知合いが来る、向こうから朝鮮が歩いてきた、あるいは日韓会談が歩いて来たということを冗談で友達が言うわけです。近ごろお前ニンニクくさくなったなというようなことを、顔までも朝鮮人に似てきたぞというようなことをそれがほとんど冗談というかたち、半ば冗談というかたちで発せられる、ところが実際に私の考えから、これこれしかじかのことでもって集会なり、なんなりをやって欲しいということを団体なり個人にするんですが、ほとんど絶対という言葉を使ってもいいくらいなんですが、応じてくれない、そういうのを見ておりまして、なぜこれほどまでにかたくなに朝鮮問題を拒絶するのかと、それはかつて朝鮮を植民地支配をしてきた人たち、ないしは朝鮮人というのは犯罪者なんだという認識をしている人ならばそれなりにわかるわけです。ところが口を開けば世の中をかえなけりゃいかんとか、民主主義だとか、はちの頭だとか言っているような諸君が、非常に拒絶反応に近い態度を示す、そういうものに接して、なぜなんだろうということをいやおうなしに考えざるを得なかったし、勉強せざるを得なかった、そういうことが60年ころから、後半から65年くらいまでにずっと続いてきた。そのほかいろんな要素があるんですけれども、とにかくなんかやっているうちに今日までになったと、こういうことですね。

山根弁護人 そういう過程の中で、在日朝鮮人問題というんですか、さらに広く言えば朝鮮問題ということになるかとも思いますけれども、何がもっとも大きな問題であるというように佐藤さんは感じましたか。

証人 いろいろあります。非常にたくさん問題はあると思うんですが、限って何が問題だというふうに言われますと、それに答えるなら、全体として日本人は、朝鮮問題ないし、在日朝鮮人問題についてはそれはいろいろ人によって違いはあるわけですけれども、全体の総体、トータルに言うならば、ほとんど何も知っていないんではないかと、無知によっておおわれておるということが言えると思います。その中で、特に、では具体的になんだと言われますとやっぱり日本の警察官を中心にしての治安当局の朝鮮人認識これは絶対に問題だと思います。この人たちは、私は今無知だという言い方をしたんですが、治安当局ないしは警察官というのは無知ではないんです。知識ということではたいへんな知識をもっている、多少具体例を申しあげますと、1952年から、警察は毎年全国から警察官を四十数名、東京の中野の警察学校に集めて、半年間の朝鮮語の教育をします。そのうちの約半数、これは成績のいい人たちだろうと思うんですが、選抜をしまして、天理市にある天理大学朝鮮語学科に専科生として送りこんでいます。一年間連日朝鮮語の教育をさせるわけです。この一年間の教育をおえてでてまいりますと、普通大学四年おって、朝鮮語学科におった学生よりも、はるかに朝鮮語が堪能になって卒業してくる、しかも技術者ということで二号俸給料があがるわけです。この人たちが、全国の在日朝鮮人が多く居住しているところに配置されています。52年に第一回生がはじめて53年に卒業をするわけです。70年の春までに18回、360名が卒業をしております。そのことを私たちのほうが問題にしましたところ、天理大は70年の春から専科生の受入れを中止しました。現在、東京の警察学校でやってます。しかし、そこを卒業した人たちは360名、警察学校どまりの警官を含めますとサンフランシスコ条約発効以降約700名、そうしますと在日朝鮮人約61万ですから、朝鮮人1,000名に対して、朝鮮語がきわめて堪能と思われる警察官が1,000人に一人の割合で全国に配置されているということです。警察官がなぜかくも熱心に学ぶのか、警察官ではなくて、警察機構がかくも熱心に朝鮮語をやるのかということです。これはいうまでもないことですが、在日朝鮮人を支配する、管理をする、そのために朝鮮語の修得に異常なまでに熱心である、こういうことをやっておるわけです。これは本件でも非常に問題になっていることですが、小泉刑事なる男が、キムヒロ、敬称略しますが、キムヒロに向かって、つまり侮辱的な言辞をろうした、私が15年間に見聞した限りにおいては、あのようなことは決して目新しいことではない。日常普段どこでもほとんどのところで警察官が言っていることです。ときによっては表現は違いますけれども、大体において、在日朝鮮人ごときものが日本ででかい顔をしているなんてのは許せない、彼らは常に犯罪や騒ぎをおこして日本社会に迷惑をかけておると、文句があったら自分の国に帰りゃいいじゃないかと、帰らないで日本におるんだったら我々の言うことを聞け、我々の法秩序にしたがえと、そのために今申しあげたような徹底的な朝鮮語の修得をやっておると、こういうことです。ですから今申しあげましたことを要約するならば、治安当局の朝鮮人認識というのは、ほとんどが朝鮮人というのは犯罪者だと、ないしはそれになり得る存在、したがって絶えず徒党を組み治安を乱すと、こういう認識のもとで今のような全国に朝鮮語外事警察に配置しておると、管理を強力に推進しておると、このことが、最後のほうで話をするんですが、このことがなんとしても問題であろうと、このような認識ですね、それが一つなんです。

山根弁護人 そこで佐藤さんは、そのような治安当局の在日朝鮮人認識というものが根本的に間違っているとお考えになるわけですね。

証人 もちろんです。

山根弁護人 しかし、なぜ治安当局はそのように在日朝鮮人をとらえるんでしょうか。

証人 それは理由は単純ではないと思うんですが、関東大震災のときの状況というものが非常に端的に示していると思うんですが、つまり、ものすごい何か天災でもなんでもかまわないんだけれども、ショッキングな事件が、ばあんと起きたときに、社会不安、暴動に類することが発生するんではないかというふうに考えるのは支配者の常です。その場合にだれがそのような行動をおこすであろうかということがあるわけです。その場合だれがおこすかという想定をするときに、普段に警察官に対してかなり敵意をもっている人たちですね、それから警察官なり治安当局が普段に徹底的に抑圧している人たち、この人たちが必ずこと起きたならば反撃してくるであろうと、こういう認識を普遍的にもつと思います。支配者の心理として、そういうことがあって在日朝鮮人の場合は、これは戦後などという生やさしいことではなくて、戦前から、本法廷でもいろいろな人が述べているように、すさまじい抑圧と弾圧をやってきた、それに対して朝鮮人がどのような対応の仕方をしてきたかというふうなことは、僕らにはわからないけれども、当局には非常によくわかるわけです。ですから治安当局が、この人たちというのは、日本の社会に敵意をもっておる、自分たちのことはたなに上げてね、そういうふうなしかもいつ自分たちがやられるかわからないという恐怖心みたいなものをいつでももっている、そういう関係が、実は一年や二年ではなくて、いわば日本近代100年に渡って続いてきておりますから、その中で支配を受ける側の在日朝鮮人なり、朝鮮人のほうでも、まああとで差別のところでふれたいと思うんですけれども、非常な人間性の破壊がなされていきますから、いわばそれが一見犯罪というようなかたちであらわれてくる、またそいつを力で弾圧し、押さえこんでいくという悪循環をずうっと近代100年に渡って繰り返してきたと、彼らの目から見て、日本人に比較して朝鮮人というのは犯罪者が多い、政治的にがたがた騒ぐやつらが多い、現象としてはそううつるわけです。そういうつまり近代の長い歴史の中で、差別と迫害支配者と被支配者の関係の中で、つまり治安当局者は在日朝鮮人を犯罪視すると、こういうかたちで生まれてきた。