金嬉老裁判資料集〜佐藤勝巳(後編)

山根弁護人 差別、差別という言葉が非常によく聞かれるわけですけれども、在日朝鮮人に対する差別というものの本質はなんだと佐藤さんはお考えになりますか。

証人 これは何がわからないといっても、日本人にとって、これほどわかりにくいものはないと思います。率直にいって非常にむずかしい問題だと思います。私は差別という言葉を日本人がいとも気やすく、いわんや比較的めぐまれておる生活環境の中で育った知識人、およびその他、もろもろの人たちが使っていることに対して、非常な不安といらだちをいつでももっております。私自身がわからないといういらだちも含んでなんですが、小むずかしいことは、私自身わかりませんけれども、具体例で申しあげますと、こういうことなんです。さきほど申しました岩波の広辞苑、おかしいではないかと、辞典部の責任者に会ったんです。彼の口からとっさにでたのは、佐藤さん、誤解しないで欲しい、差別する意図があってやったんではないと、いう言うわけです。1970年8月、少年サンデーに「男道」なる劇画が掲載されました。作者は梶原一騎、その作品の中で、ハイエナのごとき三国人どもうんぬんという記述がでてきたわけです。おかしいじゃないかといって小学館を訪問した、さらにそのあと、おかしいではないかといって筆者である梶原一騎を訪問した。両者から口をついてでてきたことは、少年サンデーの編集者の一人、「私は子供のころから朝鮮部落の近くで生活をしてきて小学校、中学校、高校生に親しい友人を何人かもっておる。差別などしておったら友人なんてもてるはずはない」梶原一騎のところに行きましたら、私は朝鮮人を差別する意図なんかいささかもない、たとえば、韓国人であるだれだれ、だれである有名人の名前がずらっとでてきたわけです。これくらい親しい友人がいるから差別なんかしていない、さらに71年2月4日、毎日新聞の夕刊に西郷何某という法務大臣が、何かへんなことをやって首になったわけです。そのへんなことの中の一つに三国人帰化問題うんぬんという記事があったわけです。毎日新聞の社会部を訪問しまして、多少いじわるくは思えたんですが、三国人というのは、どこの国籍の人間ですかという質問をしたんです。もちろん答えることができません。決して差別する意図があってあのようなものを書いたのではないという返事がかえってきた。それから役に立つ社会科資料集というのがあって、これは六年生なんです、そこにもでたらめなことがでてきていました。出版社を訪問しまして社長に会った。開口一番、差別する意図があってやったんではありませんと、こう言うんです。これくらい同じことがはんで押したようにぽーんと返ってきますと、非常に私が考えさせられたことは、この人たちは自分が差別する意図がなかったということをいうわけですね、そうすると差別というのは意図があったと、差別をするという意図があったもののみが差別なんだという前提になっているわけです。考え方として、だから自分が瞬間的に相手を侮辱する意図がなければ許されるんだと、しかし目を、視点を一転してみればわかるように、あらわなかたちで相手を侮蔑しようが、無意識に相手を侮蔑しようが、されている人たちにとって、侮蔑をされているということはまったくかわりはないんです。相手がどういう意図かなどというのは、されている側にとっては問題ではないということを実はまったくわかっていないということが、一つわかったんです。次に差別、差別という言葉が近ごろあっちこっちでむちゃくちゃに使われているんで、いささか自分が冒頭申しあげましたように、いらだちも含めまして、そんなことを研究所に言って来る学生とか、その他の諸君がよくいるから、次のような質問をここ数年間発してみました。差別するといけないというけれども、差別するとどうしていけないんだと、これも三つの答えがはんで押したように返ってきます。世界人権宣言に反する日本国憲法に反する、人が人を差別することはよくない、この答えが一番多いんです。三番目が、そこでなぜ人が人を差別するのがよくないかという質問をしますと、10人のうち10人ともほとんどつまってしまいます。多少、まあえらい人ですから、それくらいのことは知っているんじゃないかと思って、かつて静岡県警本部長の高松何某先生に、ここで人が人を差別するのはなぜいけないのだと言ったら鳩が豆鉄砲くらったような顔をして、それはわるいことにきまっているじゃないですかと、あなたはなぜそういう質問をするのかという返事がかえってきたわけです。つまり、人が人を差別するのがなぜいけないのかということを我々日本人はほとんどわかっていないということなんです。なぜいけないのか、なぜいけないのかということがわからない以上、どうしたらいいかなどということを言うことが理論的にも、実際的にもわかるはずがないんです。
非常に恥しいことなんですが、自分のことをこれから少し語らしていただきます。さきほど申しあげましたように、私は15年間くらい、朝鮮人問題がどうだとか、こうだとか、差別がよくないとか、わるいとか、ごちゃごちゃ言ってきたわけです。今から数年前に私どもの研究所の機関誌、『朝鮮研究』にある大学教授のシンポジウムの中に、ある大学教授が特殊部落という発言をしたわけです。それをそのままのせてしまった、どういう文脈の中で使われたかというと、朝鮮史というのは日本史の中にある特殊部落的存在である、形容詞として使ったわけです。ところがその雑誌が全国に配布される、当然のこととして未解放部落の人たちから激しい抗議がよせられてきました。決して差別する意図はなかったなどとは、さすが私たちは言いませんでした。すぐ謝罪をしました。しかしながら、そのような若干の謝罪などでもちろん相手は承知するはずはありません。執拗な抗議を受けました。しかし、これは率直に申しあげて、我々研究所の責任ある地位にある人たちは、たかだか形容詞ではないかという気持があったわけです。だから、なかなか相手がなぜあのように執拗に抗議をしてくるか、それを理解するのに七カ月間かかりました。そのたび私は何度か足を運んでいます。しかしながら、ついになぜかくも執拗を受けるのかわからないので当事者に東京まで来ていただきました。十何人のものが同じテーブルにすわって約10時間、日本の中における被差別部落というふうなものが、どういうものであるか、そこに具体的に生きている自分が生まれたときから、今日にいたるまでの体験を詳細に一人びとりが語ってくれた。単に語るだけではなくて、聞いておる私に向かって、こういう事実があるということをあなたは知っての上の特殊部落という発言かどうか、一つ一つ回答をせまられたわけです。
私はよくこの法廷でも抽象的に、差別は人間性を破壊するという言い方をしてきたんですが、まず最初に家族の、親子、兄弟の関係がめちゃめちゃになっていきます。つまり、朝鮮人であるというそれだけの理由で就職をはばまれる、私たちが就職をはばまれるときには、佐藤という男は怠惰な男で、仕事をちゃんとせんから首にするとか、採用しないとか、あの男の思想は、しかじかかようで、わが企業にとってこのましくないから採用しないとかいうことなんです。佐藤が日本人であるから雇わないということなんかは絶対ないんです。内容が問題なんです。行動が問題なんです。しかし、朝鮮人にとっては、存在それ自体が、差別の対象なんですね。そのことによってお父さんは酒を飲む、それは絶望的なことが毎日毎日繰り返される、ですから酒によってまぎらわす。夫婦げんかの絶え間がない、そのあげくのはてはお父さん首をつる、家出をする子供たちは明けても暮れてもそんな様見て、うちへ帰ることがおもしろくないからうちへ帰らないで外で遊ぶ、小学生、中学生が夜おそく学校から帰らないで外で遊ぶ、それはろくなことは覚えません。そういうようなことが日本の現実の社会の中で、在日朝鮮人60万、すべてとは申しませんけれども、大なり小なりそういう状況がずうっと続いておる。被差別部落出身のそういう状況が毎日のように続いておる。そこで日本人に対する激しい不信感と、絶望が生まれる。そして、あげくのはては自らの手によって、自らの命をたっていく、ないしは他人をあやめていくというようなことが、実はこの日本の中で毎日行われているということを、この人たちに私たちは知らされたわけです。そしてそのような現実を実感しないまま、つまり、かい間見ることもないまま、朝鮮人の差別がわるいとかなんとか問題がどうだとか、民主主義がどうだとか言ってきた私たち自身なんであったのかということが、当然当事者からも問われましたし、問われるまでもなく、自分の問題として考えざるを得ない。しばらくの間、ほとんど言葉を発することもできませんでした。はじめて私は血をはくような思いで差別ということは人を殺すことなんだという理解することができたわけです。ですから、私は伊達や酔狂、おもしろ半分に、なぜ人が人を差別するのがよくないのかということを質問しているんではないんです。そこにはすさまじい現実がある、そういうふうなことがあるわけです。しかし、検察官も裁判官も、具体的にあなたは在日朝鮮人の歴史や生活を知っていますかと、こういう事実を知っていますかというふうに詰問されるわけではありません。回答もせまられません。回答求めても今まで答えないようです。だから本法廷で何人もの証人が、せめて具体的に、朝鮮人の生活の場まで足を運ぶことを求めているわけです。私も同じことを強く要望するものです。本法廷で述べられたようなことで、語られたようなことで、在日朝鮮人の問題がわかったなどと夢思わないと思いますが、このままの状態で判決文が書かれることが率直に私は不安を覚えるものです。
以上差別の問題というのは、さきほども鈴木(道彦)証人が申しましたように、つまり理解するということも関連することなんですが、そうでない人たちが他人のことを理解する、なまや愚かなことではないというふうに思います。