金嬉老裁判証言集〜佐藤勝巳(中編)

山根弁護人 それに対して治安当局に属さない一般の日本人といいますか、在日朝鮮人認識というものはどのようなものだということができるでしょうか。

証人 これも、権力からかなり遠いところにおる日本人といってもいろいろあるわけで、一概には断定することはできないんですから、少し具体的に例を申しあげます。岩波書店から発行されております広辞苑という辞典がございます。これに北鮮という項目があるんです。説明はこのように書かれています。①北朝鮮、②北鮮人民共和国の略、ご存じのように辞典というのは、正しいことを人に知らせるということがたてまえになっているわけです。北鮮という言葉、南鮮という言葉、鮮人、半島人という言葉、これは朝鮮人自身が自らをそのように、朝鮮民族がこのように自らをこう呼んだことは歴史上かつて一度もないわけです。このような呼び名がなされましたのは、植民地支配がはじまってからのことなのです。朝鮮人側のほうでは、まったくあずかり知らない呼称です。一説によれば、朝鮮を略して呼ぶとき頭の文字を北朝南朝とこうなるわけです。頭をとります朝鮮の朝、北朝南朝という呼び方をしては、かつて日本の歴史の中で、よくわかりませんけれども北朝南朝というのは、なんか天皇を中心とした、そういう時代があって、呼び名があって、それが同じになるのはおそれ多い話である、したがって朝鮮の鮮の字の下のほうをとって略称とするというふうにして、北鮮、南鮮という言葉が生まれたという説があるわけです。こういうようなことがあたらずといえども私は遠からずで、朝鮮人の側からすれば、自分の国家の名称をですね、いわば哀れなさげすみをもって使ったのが日本であるわけです。そういう呼び名がなされてから、実は朝鮮人にとっては塗炭の苦しみがはじまったし、日本の植民者の手によって虐殺がはじまったわけです。
だから朝鮮人の側からするならば終生忘れることができない呼称です。それをあろうことか、まあ、進歩的だとか、民主主義だとかいわれている岩波の広辞苑が、北鮮という項目をたててきた、朝鮮という地域名と同じだと、これもおどろくべきことに北鮮人民共和国の略、地球上のどこを調べたって北鮮人民共和国などという国はありません。朝鮮民主主義人民共和国という国は存在しても、国名の誤りを公然とおかして、それが14年間岩波広辞苑の編者はもちろんのこと、岩波書店の内部からも指摘がない、外部の日本社会一般からも指摘がない、14年間放置されてきたという事実があるわけです。私たちの研究所が、このことを岩波に指摘して、改めるように申し入れてから1年半以上経過し、膨大な時間を費やして話合いをやっているんですが、依然としてなおらないわけです。国名の誤りはなおったんですが、この言葉の意味が誤りだと、明記しろということを認めないわけです。次にいかにばかげているかという例を二、三申しあげますと、約10万くらいの在日朝鮮人の子弟が現在日本の公立学校で勉強をしています。そこの教師たちに会って、あなた方は在日朝鮮人を対等なかたちで扱っていないのではないかという趣旨の質問をしたとします。ほとんどの教師諸君が、とんでもないと、日本人と差別せず平等に扱っているという回答がかえってくるんです。これは私の想像なんですが私は教師じゃありませんから、よくわかりませんけれども、白人の子弟が自分の教室に現われたならば、その教師は、あるいはそこの学校の校長は、顔を見た瞬間に、これは日本人ではないと、それなのにこの子供が日本人を教育する日本語学校に来てどうするんだろうと、親は何を考えているんだろうという疑問がとっさに浮ぶと思うんです。ところが、朝鮮人の子弟については疑問がまったく浮んでこないどころではなく、逆に日本人と同じに教育していることが差別ではないという感情、おそらく圧倒的な教師諸君が考えているところが本法廷でもしばしばいろんな人が指摘しているように、朝鮮人朝鮮人としての教育なり、人格を認めてはじめて我々と対等な関係にあるんで、子供たちは自分が朝鮮人であるということをよく知っているんです。よく知っている、しかし、それは朝鮮というふうな言葉、朝鮮人というふうな扱いによって、自分の周囲がいつでも否定的なものとしてみなされているそれに同化をしているというか、非常に大きな影響を与えている。その内部でもって非常な葛藤や屈折がでてくる、それはキムヒロ自身の意見陳述にも明記されているとおりです。
何もキムヒロ自身だけの経験ではなくて、ほとんど公立学校に存在する在日朝鮮人の子弟が多かれ少なかれそのことを感じておる、人格を全面的に否定されるわけですから、しかも否定している側は、人格を否定することが対等な扱いであるというばかげた認識をもっているわけです。こういう教育環境の中で教育されている子弟たちが腹を立てない、矛盾を感じないなどということはあり得ない、したがってまじめに学校に行くなんて気持にはならないわけです。ならない朝鮮人の子弟、子供はまじめに学校に来ない、すぐ非行化する、ものを取る、どうしようもない、こういう関係で朝鮮人の子弟の認識がはじまるわけです。こういうことがなんの不思議もなく戦後27年間、いや、これからかなり長期に渡って継続されるであろうということが今、日本の現状です。さらにそうい教師、および親たちに教育される小学校の子供たちがどのような認識をもつかということです。これは数年前に、ある中学の教師が調査をしたことなんですが、小学校の高学年に対して朝鮮についてどう思うかというアンケートをとったわけです。昔朝鮮は日本の領土だったが、戦争に日本が負けたので取られてしまった、まったく朝鮮はずうずうしい、そしてがめつい、それに朝鮮人は日本に住みついている、これはますますがめつい、朝鮮は日本の領土だったのに独立したので日本は狭くなったのです。だから日本の子供は遊び場所が少ないのです。朝鮮はあまりすきな国でない、李ラインを少しでもおかすと警備艇が来て漁船をつかまえてしまう、まったく朝鮮はいやな国だと、テレビで見ると朝鮮は日本より随分おくれているなあと思う、朝鮮の人々はどんな生活をしているか知りたいと思う、もし僕が朝鮮人だったらいやだなあと思うと、これに類似するような調査はいくらでも例をあげることができます。日本人の朝鮮認識というのは、いや間違っているとか、ゆがんでいるとか言われています。しかし、現に戦後二十何年間私たちは植民地をかたちとしてもっていないわけです。失なったわけなんです。物的基盤を現象として失なってしまったにもかかわらず、朝鮮および朝鮮人に対するこのような認識がものすごい勢いで日本社会の中で再生産されてきている。そのことは、私はたまたま教師の例を話にしているんですが、これは教師は、いうまでもなく圧倒的な日本人が私がここで紹介した認識をもって、つまり子供たち、兄弟たちに接しておる、そのことが再生産をしている、誤った朝鮮観を再生産している、こういうふうなことだろうと思います。そこでそのような日本人の朝鮮認識というふうなものが、いわば一般的に存在するわけですね。権力をもたない人たち、治安当局はじめ権力をもっている人たちの中では、さきほど申しあげたような朝鮮人認識が支配をしていると、そうでない人たちの中では、今言ったような現象が支配しているというふうなことが言えると思います。

山根弁護人 そういうことは治安当局の朝鮮人認識と日本社会一般の朝鮮、あるいは朝鮮人認識とはまったく同じであるということが言えるということなんでしょうか。

証人 そこらへんは、かなりきちんと説明しておったほうがいいように思われるんですが、本質的にはそう違わないだろうと思います。ただ治安をにぎっておるというか、つまり権力をもっている人たちの一定のはたす役割と、そうでないまあ、我々の地域社会で床屋をやっているとか、さかなを売っているとか、野菜、くだものを売っているとか、そういったような人たち、あるいは働いている人たち、社会的にはたす役割が違うと思うんです、同じ認識をもっておってもね、そこは混同することはできないであろうと思います。たいへん典型的な例があるんで一、二紹介しますと、こういうことなんです。かつてよど号事件なるものがおきました。私はうちにふろがございませんので近くの銭湯に行ったわけです。お得意の脱衣場で服を脱いでおったら、隣りの女湯の脱衣場から、大きな声で朝鮮人がああいうことをやるんだったらわかるけれども、日本人が飛行機をかっぱらうことはないと、中年のおばちゃんの声が、がんがん聞こえてくる、そういうような、いわば日本人の朝鮮人に対する朝鮮認識が骨肉化している。しかし、この中年のおばちゃんと私は治安当局のあらわな蔑視観というふうなものは本質的においては同じだと思うんですが、社会的にはたす役割は違うんで、もし警察官なら警察官が特定の朝鮮人を家宅捜査をするとか、あるいは逮捕するとか、何か行動をおこすとき、そういう認識をもった地域社会のおじさんなり、おばさんなりが、その警察官の行為に協力することはあっても反対することはないだろうと、こういう関係だろうと思うんです。それからもう一つは70年の6月5日に、警視庁当局は、総武線沿線の日本人高等学校十数校に対して、6月の6日に朝鮮人高校生たちが総武線各駅で、日本の学生を襲撃するから、各高等学校は注意せよという通報を流したんです。実際には襲撃なんかまったくなかったわけです。問題なのは警視庁から通報を受けた各高等学校の対応の仕方です。ある学校では緊急の職員会議をもち、授業の短縮がなされた、ある学校では、父兄のほうから学校を休校して欲しいという要請が学校に申しでられる、ある学校では、それはたいへんだということで、先生が二人一組になって学校から駅の間をパトロールする、これら十数校全体として騒然たる雰囲気が作りだされたわけです。この話の中で、私がたいへん驚きをもったことは、なぜその通報を受けた高校の校長なり、職員の諸君が具体的に特定されておる朝鮮高校に対して、事実かどうかという確認をしなかったかということなんですね、していないんです、どこの学校も。そのような問題があるとすれば、当然自分たちの生徒問題があるわけです。その生徒たちについて、どのような教育的な措置をとったのか、まったくとっていないわけです。ほとんどが警視庁情報はあり得ることなんだという前提にたって対応したということなんですね。
どういうことが言えるかと申しますと、デマの情報を流す警視庁というのは許せない存在だと思います、しかしながら、デマ情報を受けた側が、まったく無批判にあり得ることだという前提にたって対応をしたと、つまり校長と警視庁のおえら方とは、私ははたす役割は違うと思います、しかしながら朝鮮高校、在日朝鮮人の側から、二つの対応をみておったら、一体警視庁と高校の教師とは、どこが違うか、私、見わけつかないと思うんです。はたす役割は確かに違うけれども、こういう関係の中で実は朝鮮人に対する支配が、不法なことがなされてきたんであろうと、したがって関東大震災などというのは過去のことではないわけです。朝高生が襲撃をする、それはあり得ることだと言って対応します。だから、もし朝鮮人が毒物を投げこんで火をはなって町をうろついているという情報が流されたら、圧倒的に日本人はあり得ることだという前提にたって日本人は対応するということをもののみごとに70年の6月6日に示したという事実です。こういうことがあるわけで、本質的には同じであろう。しかし、社会的にはたす役割が双方で違うけれども、それが相補完しあってね、相互にね、全体としての加害不法なことがやられていることだろうと思います。

山根弁護人 関東大震災のときとなんらかわっていないとおっしゃいましたけれども、関東大震災のときというのは、日本の警察、および日本の自警団と呼ばれる者が、朝鮮人を大虐殺したことをさしているわけですね。

証人 ええ、ですから自警団というかたちをあのときはとったわけですね、関東大震災のときには、今度のときは教師を使ってパトロールするわけですから、それをなんと呼ぶかは別として、本質的には同じようなことがいくらでもあるわけです。現に自警団というものが、朝鮮問題でないにしても他の諸問題については組織されているわけでしょう。ですから、それはまったく同じ発想というか、同じ現象があり得るだろうなどという推定の段階ではなくて、あると断言していいと思います。

山根弁護人 関東大震災のときにも、朝鮮人が暴動を起すというデマは、警視庁から流されたということが、幾多の資料で指摘されておりますけれども。

証人 そのとおりです。

山根弁護人 それをふまえておっしゃっているわけですね。

証人 ええ、そうです。

山根弁護人 そのような日本の権力機構、治安当局、そして日本社会の中におかれている在日朝鮮人は生活、生き方というものは、一体どのような状態に投げこまれているかということについて何かおっしゃっていただきたいと思うんですが。

証人 その前にちょっとふれておきたいことは、ですから権力をもっている側の日本人も、そうでない日本人も共通して言い得ることは、在日朝鮮人が日本にいるんだということは知っているんですね、多くの人が。しかしながら、どうしてかくも多く日本に住むようになったかということを考えてみたことはほとんどないんじゃないでしょうか。それはおそらく加藤検察官にしたって、お三人の裁判官にしたって、なぜこんなに、70万しか在日外国人はいませんからね、70万の中で61万もどうして朝鮮人が多いのかということを、きちんとお考えになったことはあまりないんじゃなかろうかと、それは裁判官や検察官のみならず、日本人全体がそうではないかということが一つ言えると思います。
もう一つは、さらに在日朝鮮人が、戦前戦後、日本の社会の中でどのような状態におかれ、日本人からどのような扱いを受け、かつそのような中で朝鮮人が何を考えて生きてきているかというふうなことに一度も思いをいたしたことが我々はあるんだろうかということです。これは支配者などは一度もなかろうと思います。ないどころか、文句があったら帰れということですからそうでない日本人も、本当にそのことを自己の生き方にまでひきつけて考えたことがあるだろうか、圧倒的部分はないと思います。ですからそういう社会を、日本社会を当事者である在日朝鮮人がどのように見ておるのか、おそらく言葉で発することができないほど無茶苦茶な扱いをされているわけです。しかもその扱いを自分たちが、日本人がやっているということを当局はすごくよく見えるんだけれども、日本人がそんなばかげたことをやっていることを自覚しないということも同時にわかるわけです。ほぼ絶望感を感じているんではなかろうかと思いますし、さらに問題なことは、自分が他人を傷つけ、殺しておるというふうなことを自覚し得ないのを痴呆者というんだそうですが、そういう意味では日本の国家、もちろんそうでない人たちもいるわけですが、多くの場合、これは自分が犯罪をおかしているということを自覚しないで生きているわけです。痴呆者の大集団が成立している、その身近でもっともよい例は、本件の検察官の起訴状だと思います。起訴状によればキムヒロは、まったく何の理由もなく88時間寸又峡にたてこもったということになっているわけです。理由を指摘しない、述べないで何を問題にしているかというと、ダイナマイトを爆発させたから何々罪に該当する、ライフルぶっ放したからなんとかに該当する、原因がなくて結果だけを問題にしているわけです。つまり、この検察官の起訴状に集中的にあらわれているように、日本の朝鮮人認識というのは、朝鮮人がなぜどういう理由で日本に住んでおるのか、どんな扱いを受けておるのか、そこで彼らが何を考え、どんなつらい思いで歯ぎしりしているのかまったくわからない、その人たちが結果としておこす言動にだけは、あれこれ評価をする、その端的なものが検察官の起訴状だと思います。そういうふうなおそろしいような状況、文字どおり私は、これこそ犯罪と呼ぶべきことだろうと思います。そういう社会の中に朝鮮人が、法律などに違反せずに、一見何ごともないように生活しておる、この生活している朝鮮人のエネルギーと理性は、とうてい私どもの理解することのできないすごいものだと思います。とにかくすさまじい状況の中で矛盾にみちた法律にしばりつけられて、それにとにもかくにも抵触しないで生きていく、その本当に理性たるやおそるべきものだと思う。よく日本人でしたり顔で確かに差別はある、朝鮮人に対する差別はある、だからあのような生き方しかなかったんだというニュアンスの発言をキムヒロはしているが、それはおかしいと、それなら在日朝鮮人の全部が彼と同じ生き方をするはずだと、だから彼の主張は率直に納得しがたいものがあるというようなことを書いている人がありますし、私自身もしばしば耳にしております。私はこういう日本人にいつでも次のような質問をします。もしそういうあなたが、彼と同じ状態にたたされたならばどうするか、10人が10人ともほとんど答えることができません。私も答えることができないわけです。このようなすさまじい状況の中にたたされておっていわゆる在日朝鮮人の犯罪率が、現在のような程度でとどまっているということは、在日朝鮮人がどんなにかすぐれた資質をもっているという証明以外の何ものでもないと、私は思っています。日本人にくらべて犯罪率が多いから彼らはだめなんだというとんでもない事実誤認をやっているわけです。そんなばかなことを言っている人間に、それならば、キムヒロならばキムヒロの生いたち、状況にたたされたとき、君はどうするかと聞かれて、なんら答えることができないやつが、彼の主張というのは、いわば犯罪の合理化であるような非難をする。こういうふうに私は考えております。ただし、同じ条件にいる在日朝鮮人から、さきのような主張、つまり差別や迫害があったからあのような生き方しかなかったというのはおかしいという意見にキムヒロは答えなければならないと思います。その点は今後の生き方をきめる重大なポイントであると私は考えております。したがって是非彼自身の口から、このことについて意見を聞きたいと希望します。以上が質問の回答です。