金嬉老裁判証言集〜山本リエさん(中編)

加藤圭一検察官 裁判長、弁護人に立証趣旨の釈明を求めたいわけですが、監禁状態になかったということを立証されるんでしたら伝聞供述となるんで許されないと考えます。

山根弁護人 何をおっしゃるんですか。そういうことのために質問しているのではありません。それはおわかりになるでしょう。

石見勝四裁判長 そういう立証事項じゃないんですね。

山根弁護人 そうじゃありません。山本証人が、自分のやってきた境遇というものと、金嬉老の事件、金嬉老に共感を覚えて、そしてそこに真実を何かさぐりたいというところから、歩いていって、何を生みだしていくかということなんですね。したがって検察官の公訴事実そのものをめぐっての証人ではありません。では続けて下さい。

証人 私はだから確かに自分で、頭の中から疑問がいろいろとわいてきたわけです。マスコミのことも、あのとき新聞をたくさん読んでいましたから、テレビにもかじりついていたような状態だったから、それで結局いろいろ聞いてみると、外へも始終でて行った人もあるし、自分は寝ていたけれども、次の22日の日なんかは、おふとんをあげて、みんなと話をしていたし、それで食事も食べていたしということをいうし、いろいろ話をしているのが週刊朝日に写真でのっているんですけどといったら、「ええ、いろいろ話しました」というんですね。それで、なんか子供のころのいじめぬかれたことを金嬉老氏が話したり、ともかく警察が、朝鮮人として差別しないように、ちゃんとした人間扱いしろということをしきりと警察に対していっているんだということを自分たちに話したということもいっていました。結局あの人、加藤Kさんがいっていたことは、私から聞いたことでないことの中で、やはりマスコミでもいろいろ民族問題というものをだして、殺人問題にすりかえようとしたなんて書いていたけど、あれは僕たちそばにいて絶対あれはあり得なかった、民族問題をだして、殺人問題を民族問題にすりかえようとしたなんてことは、週刊誌やマスコミが書いていた、あれはやっぱり間違いだったと思う、週刊誌やなんかも随分間違いがあったね、ということを言っていたんです。

山根弁護人 金嬉老がああいう行動にでたのは民族差別問題であったと自分は考えているといったんですか。

証人 ええ。

山根弁護人 そういうことが加藤Kさんに会ったときの会話の内容をなしたわけですか。

証人 ええ、だけど私思うのは、やはりなんというか、まだ一人だけではさっぱりわからないということで。

山根弁護人 さらに次の人に会おうということになるわけですか。

証人 ええ。

山根弁護人 次の人というのが加藤Sさんということになるわけですね。

証人 ええ。

山根弁護人 加藤Sさんに会われたのは、いつ、どこなのでしょうか。

証人 1969年の7月13日だったと思います。あそこは岐阜県の大垣からはいったところの、小さな私鉄に乗って、西濃変電所というところで、発電所を作っているところの現場で、吉岡電気の現場の事務所みたいなところに一人でいまして、そこで会いました。

山根弁護人 それは山の中ですか。

証人 そこはまわりは田んぼでした。

山根弁護人 そこで加藤Sさんは働いていたわけですね。

証人 はい。

山根弁護人 それでどんなところで話がはじまったんでしょうか。

証人 ここでも私は、「事件から一年半近くもたったいま、あなたが一番印象に残っていることはどういうことですか」と、こういうふうに聞きましたら、「マスコミのでたらめなことだね」といって、あのとき、マスコミは随分いろんなことを書いたけれども、「今まで新聞見るのにも、全然疑って見たことはないんだけれども、あんなでたらめを書くとは、ちょっとおどろいた」ということで、ともかく「マスコミを信用できないね」というふうにいって、「あれだけ記者も多く中にはいって、あのそばであれだけのインタビューしていて書いたものが、どうしてあんなふうなでたらめになるんだろうか」というふうなことをいい、「あのときなんとか読めたのは『朝日』くらいのもんで」というふうなことで、うちへ帰って新聞は読んだがといっていました。私は、「加藤さんは四日間いてどんなでしたか」ときいたら「あのときは別に世間が大騒ぎするほどのことじゃなかったんだよ」といい、「中にいたものでなければわからないものがあそこにはあったんだ」というんですね。「彼はともかく最初からやることをいったし、それをやったら死ぬということをいっておったし、わしらもそう思っていたんだ」というふうなことで、恐怖とかなんかそういうことはないみたいな……。

山根弁護人 まるであっけらかんみたいな感じで、それが強い印象ですか。

証人 ええ、そういうふうな調子で、最後まで死ぬということをいっていたということで、「宿の主人にも宿賃を払っていたしなあ」といってました。

山根弁護人 それを話されたのは吉岡電気の工事現場の事務所だったわけですか。

証人 事務所ですね。

山根弁護人 それからさらに寺沢Kさんに会いに行かれるようになるわけですね。

証人 ええ。

山根弁護人 この時点では二人に会われたわけですが、それでどういうように山本さん思われたんですか。

証人 加藤Sさんは「人質のことも、部下の二人が事件のあった次の21日に、名古屋に試験で行かなければいけないんで、実はこの人間は本当のことを話せばわかる人間だなと思って話したら、行ってもいいよと彼はいった」といってました。あのときの市原さんと伊藤さんが、外に出たら、そうしたらNHKのニュースで、人質は恐怖におののいているとかいう放送がかかって、だめだ、あんなことをいってるから、だめだと、連れて来てくれといわれて、ともかく連れに行ったんだと。だから「人質、人質といっても、あのとき間違った放送さえしなければ出られたんだけどなあ」ということをいっておりました。

山根弁護人 それからさらに寺沢Kさんに会われたわけですか。

証人 はい。

山根弁護人 これはいつごろのことでしょうか。

証人 同じ変電所で働いていて、おふろからでてから、二階の宿舎の入口のところで話をしました。

山根弁護人 あんまりこの人とは話をしていないんですか。

証人 あんまり話してないけど、ただ一言いったのは、いわゆる現地のことを本当に知らないで、いろんなことをいったり、書いたりすること、そういうものに対して、実際に僕たちのことを知らないで、勝手なことをいうというようなことに対して、ともかく「あそこにいた人間でなければわからないものがあそこにはあったんだ」と。

山根弁護人 寺沢さんも加藤Sさんと同じようなことをいっていたんですか。

証人 ええ、銃を突きつけられたこともないし恐怖はなかったというんですよね。

山根弁護人 そのあと市原さんにも会われたわけですが、市原さんも同じところですか。

証人 やっぱり同じ宿舎の広い二階ですけど、20畳くらいの部屋で、その奥で彼はテレビを見ていまして、そこでまた一言話をしたんですけれども、彼には私もちょっとしか話さなかったんです。
「何が一番印象に残っているの」ときいたら「マスコミはでたらめだ」といったんです。私が、マスコミだって、下のほうの記者は本当の記事をまとめて書いて、デスクに送っても、上役のデスクのほうでいろいろと文章をなおしたりして、その社にあった新聞にするということはあり得るから、一概にでたらめだといえないんじゃないかといったら、「上役も下役もみんなでたらめだ」といわれました。あのときはいろいろどうだったときいたら、「あれは監禁や人質じゃない」といって、私がどなられたような状態だったんです。「朝鮮人だって人間だい」といわれて、それで私はもう辞退したわけです。

山根弁護人 市原さんはそういうようにおっしゃったわけですか。

証人 はい。

山根弁護人 それからさらに別の人に会われますね。田村さん、小宮さん、伊藤さんという人たちですが、田村さんに会われたのはいつどこでしょうか。

証人 1969年の7月の暑いさかりだったから、26日ですね。岐阜の恵那市というところの市から、ちょっと行ったところの山田旅館という、きたない木賃宿みたいな旅館の中でした。

山根弁護人 田村さんは仕事でそこに泊っていたということですか。

証人 そうですね。中日本基礎工業といってもちっちゃな会社らしくて、大きな一つの土建会社の中に、別の会社名で配属するという形になっているみたいだったんですけど、大勢の中で、中日本基礎工業の人といってもわからなかったんですけどね。それで私が着いたころは午後五時ころだったもんだから、宿の人に聞いたら、まだ仕事から帰っていないというんで、それから六時ころ、がやがやと帰って来て、36度か7度くらいで、ものすごいうだるような、岐阜の山の中では暑かったんですけれども、それでおふろにはいったりし、お食事したあと会いたいといったら、なかなか私のところへ来てくれないので、どうしたんかなあと思ったら、麻雀やりだしたりしちゃって、それで麻雀が一回おわったら行くといって、そのあと八時ころ私のところへ来てくれまして、30分くらい話をしました。

山根弁護人 そこではどんな話になったんでしょうか。

証人 田村さんに「あの事件から一年半近くたつけれども、あなた、あの事件で一番印象に残っていることはどんなふうなことですか」と聞いたら「なんともないねえ」というんですね。おかしいどういうことなんだろうなと思ったんです。「別にときどきああっと思いだすくらいだ」と、こういうふうにいうんですね。あなたはどこに寝ていたんですかときいたら、下の部屋に寝ていたんだと。そのとき新聞なんかには銃を突きつけたとか、私は印象に残っているんで、『週刊朝日』も持って行って、それを見せたりしながらきいたら、いや、あのときは「今晩は、今晩は、今晩はと何回かいっておったんだ」といい、夜中の11時半ごろで、相棒と寝ていたら、「お客さんだな」と思っていて、「宿の主人にはわからないのかなあ、どうして宿の主人出ないのかなあと思っていた」というんですね。それで、あれどっか行っちゃったのかなあと思っていたら、そのうちにまたはいって来て、自分たちの部屋をあけて起きてくれという。鉄砲かついだ人がそこにいるんで狩りの帰りかと思って俺たちはいたんだと。そうしたら清水で人を殺してきたと。ニュースかテレビを見たかというし、そんなもの知らんといったら、弾を見せてくれた。うそでないぞ、人を殺してきたんだから、ともかくやることがあるから、みんなを起こしてくれといわれた、と。それでも本気にしなかったんだけれども、ともかくなんだか知らんけれども起こしに行ったりして、二階に集まったんだといっていました。
それから田村さんが、おもしろいことをいっていたのは、あの人が奥泉に奥さんと子供さん三人を送りかえすことの運転をしたというのも『週刊朝日』に出ていましたし、それで私、聞いたんです。自分が送ってでたんだと。22日っていったか、そうしたらそのとき雪が降っていて、15キロくらいで車を走らして行ったんだけれども、奥泉に警察本部か何かあって、そこで「もう帰らんでもいいぞ」と警官にいわれたというんですね。それで僕だっても帰りたくないような気もしたんだけど、そのうちに「おそいぞおそいぞ」という電話がかかってきて、それでおっかなくなっちゃって、帰りは45キロくらいで突っ走って来たら、雪が降っていて、道が凍っていて、すべっちゃってすごくあわてたと。ともかくおっかないからふじみ屋旅館へ帰って来たら、みんながこたつにはいっていて、仲よくわいわい笑ったり、金嬉老と一緒にみんなで話をしていたんだというんです。「おかしいな、だれが電話かけたんだろうなと思って、だれかかけたか、お前かけたかときいたら、知らんっていうし、金嬉老にかけたかいと聞いたら知らんというし、おかしいなあと思っているんだ」といい、彼はおかしいなあということを非常にいっていて、今でもあの電話がどうもおかしい、それからこわくなって車を運転するのをやめちゃったといっていたのが印象に残ってます。

山根弁護人 おかしいなというのは、金嬉老じゃなくて全然別のものが、そういう工作みたいなことをしたんじゃないかということですね。

証人 ええ、彼は今でも「警察かなあ」ということを一言いって、こういうふうに首をかしげていましたけれどもね。それで、彼に最後に朝鮮人のお友達なんかのことを聞きましたら、お友達はいなかったけど、人夫の中にいたといっていましてね。とてもよく働いてくれて、「仕事が助かるなあ」「はかどるなあ」と、そういうふうにいっていましたけれどもね。

山根弁護人 そのあとが小宮Sさんですね。

証人 ええ。

山根弁護人 この人に会ったのは、いつどこなんでしょうか。

証人 1970年の7月です。横浜の鶴見の友野さんというおうちにいました。そこに住んでいるんですね。奥さんや子供さんと一緒に。彼はもう「忘れちゃった」ということで具体的なことはいってませんでした。別の話になりました。

山根弁護人 伊藤Tさんに会ったのはいつ、どこでですか。

証人 1970年の6月6日、信州の、長野県植科郡の坂城変電所の建設現場ですけれども、そこでお昼休みに会いました。

山根弁護人 それでどんな話になりましたか。

証人 この人にも「事件から二年以上たったんですけれども、あなたが一番印象に残っていることはなんですか」と聞いたんです。そうしたら彼が、「最後のときだね」というんですね。「最後につかまったときだね」というんです。「つかまったとき、なんともいえないいやな気がした」というんですね。いやというか、気の毒というか、なんともいえない気持だったというんですね。ともかく、はじめは死ぬといっていて、「僕らだって、本当に死ぬということをずっと肌で感じていたのに」あんな形でつかまって。

山根弁護人 死ぬというのはだれが。

証人 金嬉老が。金嬉老がともかく警察との謝罪要求がすんだら死ぬんだというふうにいってたのに、つかまったというのが非常になんともいえないいやな気持で気の毒というか、ちょっと言葉にいえないんだという調子でしたね。