金嬉老裁判証言集〜山本リエさん(前編)

アイヌ文化伝承者の山本りえさんについて書いたら山本リエさんのことを思い出した。

山本リエさんは本名山本伸子、ペンネームが山本リエ。1924年頃の生まれと思われる作家で刊行されたものでは以下のような著作がある。

1974年、消えないねずみ花火(新人文学会)
1979年、底辺から差別・抑圧と闘う文学(創樹社)
1982年、金嬉老とオモニ━━そして今(創樹社)
1988年、燃える夕焼け空に立つ時(新人文学会)
1989年、大柿しん[亻に辰]太郎の軌跡・追悼作品集(新人文学会)

1989年以降の消息は不明。「消えないねずみ花火」は金嬉老事件で「人質」とされたダム工事作業員達を訪ねて彼らの証言を集めたものとして一部で注目されたが、もとは山本さんが自ら主宰し発行していた文芸同人誌『新人文学』に連載されたもののようだ。かつて私も「消えないねずみ花火」の単行本を所持していたが残念ながら散失して今は無い。ただ
手許に金嬉老公判対策委員会発行の「金嬉老問題資料集Ⅴ証言集1」(1972年2月15日)が有り、「消えないねずみ花火」に書かれたことの凡そを知ることができる。貴重な証言で、かつ今後の再刊が期待できないので、この中から山本リエさんの証言を再録する。


1971年10月27日
証人
氏名、山本伸
年令、47年
職業、作家
住居、(略)

速記録

山根二郎弁護人 山本さんのご職業は。

証人 作家です。

山根弁護人 雑誌の編集をなさっているんじゃないですか。

証人 はい。いわゆる未組織の店員とか工員とか農民とか、そういう非常に底辺で働く、低賃金の人たちなどと手を結んで、文学集団を作って17年になり、ともかくずうっと雑誌も出版してきております。

山根弁護人 17年間雑誌の編集と、それからご自分の作品を両方なさってきたということですか。

証人 そうですね。

山根弁護人 その文学集団はなんという名称ですか。

証人 新人文学会といいます。

山根弁護人 昭和43年の2月に、いわゆる金嬉老事件と呼ばれるものが発生しましたけれども、山本さんはこの事件のあと寸又峡に行かれたり、あるいは当時マスコミ、あるいは警察などが人質と呼んでいた人たち、当時金嬉老がふじみ屋旅館にたてこもっていたとき、ふじみ屋旅館に宿泊していた人たちを訪問するというようなことをなさいましたね。

証人 はい。

山根弁護人 そのことについてこれからおっしゃっていただきたいと思うんですが、どういうところから金嬉老事件金嬉老が逮捕されたあとですが、そういうような形で関心をもたれたのか、そのへんのところからうかがいたいと思うんですが。

証人 金嬉老事件がおきたときには、やはり大きなショックでした。それというのはやはり日本国家、そして日本人民衆というものが朝鮮人と対置した場合、常に裁かれ、告発される立場にあると思っているからです。それにいわゆる36年間の日本の植民地政策というもの、その中で行なわれてきた日本国家の犯罪というか、いわゆる強制連行の中での犯罪行為、その中で強制労働させられたりした朝鮮人、それはもう日本の歴史の中で、本当に大きな問題として、歴史の犯罪的行為というものがなされてきていたし、私の生まれた静岡県のあっち、こっちの山奥の発電所とか、日本国中の鉄道を敷くにもほとんど朝鮮人の土工とか、現場で働く人たちが、戦時中憲兵の剣のもとに食べるものも食べさせてもらえないで、牛馬以下に酷使され、あるいは殺されたりしながらやってきておりますし、戦後26年たっても、日韓会談がずっととおった今も、民族差別というものをずっといろんな形で朝鮮人はされてきているんだし、ああいうふうなことがおきるのは当然じゃないかと思いました。
私たち新人文学会の中にも、会員で在日朝鮮人がいました。やはり日本名を名乗って職場をさがすわけですね。そういうようなこともありましたし、なかなか私たちともうまくいかなかったし、いろんなこともありました。まあ、そういうことで金嬉老事件がおこったときにはショックだったわけです。

山根弁護人 そういう金嬉老事件からの衝撃が山本さんを寸又峡とか、あるいは人質と当時呼ばれて旅館に泊っていた人たちを克明にたずねて行かれた、その内容が山本さんのおやりになっている新人文学会に三回にわたって、〈金嬉老事件と私〉『消えないねずみ花火』という題で、いろいろ歩かれてみたり、聞いたりしたことを山本さんのお考えを含めて書かれておりますね。

証人 (うなずく)

山根弁護人 そういう金嬉老事件からの衝撃から、さらに、そのように一人で、いろいろ歩かれるというのには、さらに何か契機がおありだったんでしょうか。

証人 ありました。

山根弁護人 それはどういうものであったんでしょうか。

証人 金嬉老事件がおきたところが静岡県であるし、私が生まれたのが、やはり大井川下流の一寒村の貧困な家でありましたし、父が樵で働いていたんですけれども、六つのときに大井川の上流の今は大井川ダムができていますけれども、あの山の中で仕事をしていたときに心臓麻痺で倒れたので、その頃、母は30たらずで未亡人となりまして、三人の幼い子供を育てていくのに、結婚まえまではずっとお屋敷女中みたいなことをやっていた母ですが、大井川の川原の砂利ふるいの土方仕事なんかに出て働きました。一日あのころなんか、私、小学校一年生か二年生でしたけれども、60銭か65銭くらいの日給で、お米が確か30銭くらいだったか、私も一升くらいずつお米を買いにやらされましたけれども、雨が三日か四日降ると、お米を買うお金もなくなったりして、こじきするかなんていったり。あのころ経済恐慌で、日本の昭和の初期ですから、こじきが大井川の鉄橋の下にいっぱいいる話を母から聞かされ、こじきにくれてやるとか、こじきするかということをいわれて、悲しい思いをとてもしたんですね。
結局そういう生活も三、四年で、どうしようもなくて母子ばらばらに暮していくようになったんですけど、私は祖父が代々つかえていた地主の主従関係にある一族の遠州のほうの大地主の家柄のうちへあずけられて、小学校四年生ですけど、そこで働きながら小学校へかよったわけです。そのころ私が育てられた女主人の一族というのは、日本の明治以来の資本主義権力のもとで文教政策をもっともすすめてきた文部大臣だとか、あるいは京都帝国大学の学長だとかをやった一族ですから、非常に身分差別の厳格なしつけをされ、私が正しいことを一言でも言おうとすると、「お前らの身分で」「お前らの身分で」ということで、犬や猫以下にいじめられて、「絶対服従だ」「絶対服従だ」という言葉が常にでてきて、そこであやまらない限りは一時間でも、二時間でもせっかんされました。私は子供でしたけれども井戸にとびこんで大人に抗議しようとか、毒でも入れて殺しちゃおうとか、そういう殺意を感じたけどできないし、結局、逃げたりしましたけど、束縛が続いて、10代をほとんど三軒くらい地主をたらいまわしされました。二軒目のうちなんかは、朝四時ころたたき起こされて、戦時中でしたから、食べるものはくれないし、それこそ夜中の一時、二時ころまで家事労働から山の仕事から農業からやらされて、そういうことをして眠る時間が三時間くらいしかなかったんです。逃げると追いかけられて、何度か逃げたんですけど追いかけられて、何かというと警察にいうというし、お前なんか逃げたっても警察にいえばいつでもつかまるというおどかしなんですね。そういうことをされてきたりしたんです。逃げたといっても子供だから、自分のうちの親戚くらいにしか行けないけれども、私の一族は貧農の小作人ですから、必ず地主の家の命令で私をさがしだすという形になるんです。そうでないと土地を取上げられたり、そういうようなことだったわけです。
そのころ私はそういう差別をされていたのですけれども、当時私と同世代の金嬉老少年が本当のおとうさんをなくして家庭がうまくいかなくて、放浪生活をしていて、そして警察につかまったりした時と重なるわけですね。オイコラ警察の時代ですから、非常に残虐を加えられて、うったり、けったりされたりした。私自身も何かといえば必ず薪でなぐられたり、おしりや横腹を女主人になぐられたり、むすこは下駄で背中をけったり始終されたわけです。
当時、朝鮮人ということでばかにされた金嬉老少年というか、あるいは権禧老少年というか、そういう少年がいたと。そういうことがあって、しかし私は一応戦後平和憲法になってから、この束縛を逃れて、20代の半ばに文学というものを東京にでて学び出し、唯物論的な思想を身につけ新しい文学史観のもとで文学集団を作り、みんなと手を結んで、そういう支配権力の敵に対しては、文学によって追及するんだということで今日まできたんですけど、しかし金嬉老という寸又峡で事件をおこした在日朝鮮人の一人の代表といってもいいかもしれないこの人は、私が文学運動をやってきたそれと同じくらいの年月を刑務所生活しているということを新聞などであのときみまして、これはなんであろうかと、やっぱりこれは前科者という形で、いろんなところへ勤めようとしても、まじめに働こうとしても働けない日本の社会があったというふうなこと、そして朝鮮人という二重の民族差別をされ、そんなことがあってあの寸又峡の事件へと段階がすすんだ。みんくすで稲川組の曽我幸夫ですか、幹部ともう一人を殺したわけですけれども、あの事件はあの事件だ、寸又峡寸又峡の事件だというふうにわけて考えるなんてことはとうてい考えられません。私自身が今文学をやっていることは、生まれたときから、そして虐待されてきた子供のころから、そういうなんていうか、ずっと今日までの全体がかさなっているわけです。彼が39歳で寸又峡で事件をおこしたときは、オギャーと生まれてより39年間の朝鮮人としてのすべてがかさなって一つの血のかたまりのような形になって、憤りとなってああいう行為がなされたんじゃないかという共感、それがあったわけです。

山根弁護人 在日朝鮮人として生きてきた金嬉老の境遇と山本さんの小さいときからの、おとうさんもなくなられて、地主の家で酷使されて、そのようなところで事件をとらえた山本さんさんと非常にそこでかさなるものがあったというわけですね。
証人 (うなずく)

山根弁護人 そういうところから寸又峡をおとずれたわけですか。

証人 (うなずく)

山根弁護人 寸又峡へ行かれたのはいつになるわけですか。

証人 1969年の3月2日の早朝でした。

山根弁護人 いわゆる金嬉老事件の翌年ですね。

証人 そうです。

山根弁護人 そうして人質といわれている金嬉老事件の、ふじみ屋旅館にいた人たちをたずねられだしたのはいつからですか。

証人 一番最初の人は加藤Kさんだったんですけれども、1969年の6月21日ですね。

山根弁護人 6月からいろんな人に会いに行かれたわけですね。結局だれとだれにお会いしたわけでしょうか。

証人 加藤Kさん、それから敬称略さしてもらいます。その次に加藤S、その次に寺沢K、その次に市原K、それから田村N、小宮S、伊藤Tですか。

〚原文では実名フルネームで載っているが、名前はイニシャルのみにした〛

山根弁護人 そうしますと全部で七人ですね。
証人 はい。

山根弁護人 検察官が監禁されて人質であったと主張しているうちの非常に多くの人をたずねられたわけですが、そういう一人一人の人をたずね歩かれたということですね。

証人 (うなずく)

山根弁護人 さきほど山本さんの自分が生きてきた境遇というものと、金嬉老との、金嬉老事件といいますか、そこから明らかになってきました、在日朝鮮人金嬉老の境遇、それがなぜ寸又峡に行ったり、旅館の宿泊者、人質と呼ばれている人たちのところへ行ったりということになったんでしょうか。

証人 一言でいって、これは真実の追及をしなければ、マスコミでさわがれていたけれども、本当にあの裏に何かあるんじゃないか、それは人質といわれた労働者たちというか、出稼ぎで働いているというか、あの人たちが何か真実のカギをにぎっていそうな感じが直感的にしたわけです。

山根弁護人 要するにふじみ屋旅館に滞在していた、マスコミや警察や、あるいは検察官が人質だといっている人たちが、出稼ぎというんですか、労働者であるというところにも、何か自分とつなげて、何か見いだせるんではないか、ということをお考えになったということですか。

証人 そうですね。

山根弁護人 まず事件当時旅館に滞在していた人たちに会ったのは、1969年の6月ですね。加藤Kさんということですが、加藤Kさんとはどこでお会いになったんでしょうか。

証人 名古屋の千種区というところにある加藤さんの自宅なんです。

山根弁護人 そこでどんなことを話されたといいますか、加藤Kさんの家を訪問したときの、さまざまなことをご記憶のあることをおっしゃっていただきたいと思うんですが。

証人 私その日実は、午後六時ころでしたんですけれども、つゆどきで、夕方ものすごいどしゃ降りだったんですね。それで夜行で行って、朝、名古屋に着きまして、名古屋の町で吉岡電気の電話番号調べたりしまして、それで吉岡電気に電話をしてみましたら、ほかの人にも会いたかったんですけれども、岐阜のほうに行ってるとか、信州に行ってるとかいう人があって、寺沢さんとか、市原さんを寮とか会社へたずねたら、その人たちもいなかったし、結局加藤Kさんしか市内にいないみたいなことをいわれまして、それでどしゃ降りの雨の中をリュックをしょって、履いていたズックもぐしゃぐしゃになってしまって、それでやっとたずねあてたんです。そうしたらお留守でいくらベルを押してもでてこなかったんです。もっとも自由にあけられるような形だった門だから、玄関の入口でちょっと待たしてもらって、多分六時半ころはお帰りじゃないかと思って、それで雨宿りして待っていたら、加藤さんが車で、自家用車かなんかでみえまして、そしてはいって来て、この人が加藤Kさんかなと思って、実は私『週刊朝日』の1968年の金嬉老事件の緊急特集という3月8日号でしたか、その号を持っていて、写真に「ライフル魔と人質たち」という見出しで大きく見開きにでている、みんなと語り合っている写真をみて、どれが加藤さんかとにらみながら、「加藤さんですか」ときいたら、「はい」というわけで、「家内も子供も実家へ行っちゃって、きたないけれどもおはいりください」といってくれました。実は東京からこういうふうに来たんですけれどもといったら、「そうですか、どうぞどうぞ」というような調子で、ずぶぬれのズックやら、くつ下を脱いで、居間みたいな、応接間みたいな長椅子へすわって話をしたんです。

山根弁護人 それでどんな話をしたんですか。

証人 内容はやっぱり一年あまりたつ金嬉老事件に対する「一番印象に残っていることはなんですか」と私はたずねたんです。そうしたら、「別になんともないですね」というんですね。「どうってこともないですね」というから、ええー、と思って、私はマスコミの報道がひどく頭にはいっていますから、脅迫されたとか書いていますから、「夢にみたりすることはないですか」ときいたら、「別に見ないですよ。別にそんな恐怖はなかったですからねえ」といって。