金嬉老裁判資料集〜佐藤勝巳(後編)

山根弁護人 差別、差別という言葉が非常によく聞かれるわけですけれども、在日朝鮮人に対する差別というものの本質はなんだと佐藤さんはお考えになりますか。

証人 これは何がわからないといっても、日本人にとって、これほどわかりにくいものはないと思います。率直にいって非常にむずかしい問題だと思います。私は差別という言葉を日本人がいとも気やすく、いわんや比較的めぐまれておる生活環境の中で育った知識人、およびその他、もろもろの人たちが使っていることに対して、非常な不安といらだちをいつでももっております。私自身がわからないといういらだちも含んでなんですが、小むずかしいことは、私自身わかりませんけれども、具体例で申しあげますと、こういうことなんです。さきほど申しました岩波の広辞苑、おかしいではないかと、辞典部の責任者に会ったんです。彼の口からとっさにでたのは、佐藤さん、誤解しないで欲しい、差別する意図があってやったんではないと、いう言うわけです。1970年8月、少年サンデーに「男道」なる劇画が掲載されました。作者は梶原一騎、その作品の中で、ハイエナのごとき三国人どもうんぬんという記述がでてきたわけです。おかしいじゃないかといって小学館を訪問した、さらにそのあと、おかしいではないかといって筆者である梶原一騎を訪問した。両者から口をついてでてきたことは、少年サンデーの編集者の一人、「私は子供のころから朝鮮部落の近くで生活をしてきて小学校、中学校、高校生に親しい友人を何人かもっておる。差別などしておったら友人なんてもてるはずはない」梶原一騎のところに行きましたら、私は朝鮮人を差別する意図なんかいささかもない、たとえば、韓国人であるだれだれ、だれである有名人の名前がずらっとでてきたわけです。これくらい親しい友人がいるから差別なんかしていない、さらに71年2月4日、毎日新聞の夕刊に西郷何某という法務大臣が、何かへんなことをやって首になったわけです。そのへんなことの中の一つに三国人帰化問題うんぬんという記事があったわけです。毎日新聞の社会部を訪問しまして、多少いじわるくは思えたんですが、三国人というのは、どこの国籍の人間ですかという質問をしたんです。もちろん答えることができません。決して差別する意図があってあのようなものを書いたのではないという返事がかえってきた。それから役に立つ社会科資料集というのがあって、これは六年生なんです、そこにもでたらめなことがでてきていました。出版社を訪問しまして社長に会った。開口一番、差別する意図があってやったんではありませんと、こう言うんです。これくらい同じことがはんで押したようにぽーんと返ってきますと、非常に私が考えさせられたことは、この人たちは自分が差別する意図がなかったということをいうわけですね、そうすると差別というのは意図があったと、差別をするという意図があったもののみが差別なんだという前提になっているわけです。考え方として、だから自分が瞬間的に相手を侮辱する意図がなければ許されるんだと、しかし目を、視点を一転してみればわかるように、あらわなかたちで相手を侮蔑しようが、無意識に相手を侮蔑しようが、されている人たちにとって、侮蔑をされているということはまったくかわりはないんです。相手がどういう意図かなどというのは、されている側にとっては問題ではないということを実はまったくわかっていないということが、一つわかったんです。次に差別、差別という言葉が近ごろあっちこっちでむちゃくちゃに使われているんで、いささか自分が冒頭申しあげましたように、いらだちも含めまして、そんなことを研究所に言って来る学生とか、その他の諸君がよくいるから、次のような質問をここ数年間発してみました。差別するといけないというけれども、差別するとどうしていけないんだと、これも三つの答えがはんで押したように返ってきます。世界人権宣言に反する日本国憲法に反する、人が人を差別することはよくない、この答えが一番多いんです。三番目が、そこでなぜ人が人を差別するのがよくないかという質問をしますと、10人のうち10人ともほとんどつまってしまいます。多少、まあえらい人ですから、それくらいのことは知っているんじゃないかと思って、かつて静岡県警本部長の高松何某先生に、ここで人が人を差別するのはなぜいけないのだと言ったら鳩が豆鉄砲くらったような顔をして、それはわるいことにきまっているじゃないですかと、あなたはなぜそういう質問をするのかという返事がかえってきたわけです。つまり、人が人を差別するのがなぜいけないのかということを我々日本人はほとんどわかっていないということなんです。なぜいけないのか、なぜいけないのかということがわからない以上、どうしたらいいかなどということを言うことが理論的にも、実際的にもわかるはずがないんです。
非常に恥しいことなんですが、自分のことをこれから少し語らしていただきます。さきほど申しあげましたように、私は15年間くらい、朝鮮人問題がどうだとか、こうだとか、差別がよくないとか、わるいとか、ごちゃごちゃ言ってきたわけです。今から数年前に私どもの研究所の機関誌、『朝鮮研究』にある大学教授のシンポジウムの中に、ある大学教授が特殊部落という発言をしたわけです。それをそのままのせてしまった、どういう文脈の中で使われたかというと、朝鮮史というのは日本史の中にある特殊部落的存在である、形容詞として使ったわけです。ところがその雑誌が全国に配布される、当然のこととして未解放部落の人たちから激しい抗議がよせられてきました。決して差別する意図はなかったなどとは、さすが私たちは言いませんでした。すぐ謝罪をしました。しかしながら、そのような若干の謝罪などでもちろん相手は承知するはずはありません。執拗な抗議を受けました。しかし、これは率直に申しあげて、我々研究所の責任ある地位にある人たちは、たかだか形容詞ではないかという気持があったわけです。だから、なかなか相手がなぜあのように執拗に抗議をしてくるか、それを理解するのに七カ月間かかりました。そのたび私は何度か足を運んでいます。しかしながら、ついになぜかくも執拗を受けるのかわからないので当事者に東京まで来ていただきました。十何人のものが同じテーブルにすわって約10時間、日本の中における被差別部落というふうなものが、どういうものであるか、そこに具体的に生きている自分が生まれたときから、今日にいたるまでの体験を詳細に一人びとりが語ってくれた。単に語るだけではなくて、聞いておる私に向かって、こういう事実があるということをあなたは知っての上の特殊部落という発言かどうか、一つ一つ回答をせまられたわけです。
私はよくこの法廷でも抽象的に、差別は人間性を破壊するという言い方をしてきたんですが、まず最初に家族の、親子、兄弟の関係がめちゃめちゃになっていきます。つまり、朝鮮人であるというそれだけの理由で就職をはばまれる、私たちが就職をはばまれるときには、佐藤という男は怠惰な男で、仕事をちゃんとせんから首にするとか、採用しないとか、あの男の思想は、しかじかかようで、わが企業にとってこのましくないから採用しないとかいうことなんです。佐藤が日本人であるから雇わないということなんかは絶対ないんです。内容が問題なんです。行動が問題なんです。しかし、朝鮮人にとっては、存在それ自体が、差別の対象なんですね。そのことによってお父さんは酒を飲む、それは絶望的なことが毎日毎日繰り返される、ですから酒によってまぎらわす。夫婦げんかの絶え間がない、そのあげくのはてはお父さん首をつる、家出をする子供たちは明けても暮れてもそんな様見て、うちへ帰ることがおもしろくないからうちへ帰らないで外で遊ぶ、小学生、中学生が夜おそく学校から帰らないで外で遊ぶ、それはろくなことは覚えません。そういうようなことが日本の現実の社会の中で、在日朝鮮人60万、すべてとは申しませんけれども、大なり小なりそういう状況がずうっと続いておる。被差別部落出身のそういう状況が毎日のように続いておる。そこで日本人に対する激しい不信感と、絶望が生まれる。そして、あげくのはては自らの手によって、自らの命をたっていく、ないしは他人をあやめていくというようなことが、実はこの日本の中で毎日行われているということを、この人たちに私たちは知らされたわけです。そしてそのような現実を実感しないまま、つまり、かい間見ることもないまま、朝鮮人の差別がわるいとかなんとか問題がどうだとか、民主主義がどうだとか言ってきた私たち自身なんであったのかということが、当然当事者からも問われましたし、問われるまでもなく、自分の問題として考えざるを得ない。しばらくの間、ほとんど言葉を発することもできませんでした。はじめて私は血をはくような思いで差別ということは人を殺すことなんだという理解することができたわけです。ですから、私は伊達や酔狂、おもしろ半分に、なぜ人が人を差別するのがよくないのかということを質問しているんではないんです。そこにはすさまじい現実がある、そういうふうなことがあるわけです。しかし、検察官も裁判官も、具体的にあなたは在日朝鮮人の歴史や生活を知っていますかと、こういう事実を知っていますかというふうに詰問されるわけではありません。回答もせまられません。回答求めても今まで答えないようです。だから本法廷で何人もの証人が、せめて具体的に、朝鮮人の生活の場まで足を運ぶことを求めているわけです。私も同じことを強く要望するものです。本法廷で述べられたようなことで、語られたようなことで、在日朝鮮人の問題がわかったなどと夢思わないと思いますが、このままの状態で判決文が書かれることが率直に私は不安を覚えるものです。
以上差別の問題というのは、さきほども鈴木(道彦)証人が申しましたように、つまり理解するということも関連することなんですが、そうでない人たちが他人のことを理解する、なまや愚かなことではないというふうに思います。

金嬉老裁判証言集〜佐藤勝巳(中編)

山根弁護人 それに対して治安当局に属さない一般の日本人といいますか、在日朝鮮人認識というものはどのようなものだということができるでしょうか。

証人 これも、権力からかなり遠いところにおる日本人といってもいろいろあるわけで、一概には断定することはできないんですから、少し具体的に例を申しあげます。岩波書店から発行されております広辞苑という辞典がございます。これに北鮮という項目があるんです。説明はこのように書かれています。①北朝鮮、②北鮮人民共和国の略、ご存じのように辞典というのは、正しいことを人に知らせるということがたてまえになっているわけです。北鮮という言葉、南鮮という言葉、鮮人、半島人という言葉、これは朝鮮人自身が自らをそのように、朝鮮民族がこのように自らをこう呼んだことは歴史上かつて一度もないわけです。このような呼び名がなされましたのは、植民地支配がはじまってからのことなのです。朝鮮人側のほうでは、まったくあずかり知らない呼称です。一説によれば、朝鮮を略して呼ぶとき頭の文字を北朝南朝とこうなるわけです。頭をとります朝鮮の朝、北朝南朝という呼び方をしては、かつて日本の歴史の中で、よくわかりませんけれども北朝南朝というのは、なんか天皇を中心とした、そういう時代があって、呼び名があって、それが同じになるのはおそれ多い話である、したがって朝鮮の鮮の字の下のほうをとって略称とするというふうにして、北鮮、南鮮という言葉が生まれたという説があるわけです。こういうようなことがあたらずといえども私は遠からずで、朝鮮人の側からすれば、自分の国家の名称をですね、いわば哀れなさげすみをもって使ったのが日本であるわけです。そういう呼び名がなされてから、実は朝鮮人にとっては塗炭の苦しみがはじまったし、日本の植民者の手によって虐殺がはじまったわけです。
だから朝鮮人の側からするならば終生忘れることができない呼称です。それをあろうことか、まあ、進歩的だとか、民主主義だとかいわれている岩波の広辞苑が、北鮮という項目をたててきた、朝鮮という地域名と同じだと、これもおどろくべきことに北鮮人民共和国の略、地球上のどこを調べたって北鮮人民共和国などという国はありません。朝鮮民主主義人民共和国という国は存在しても、国名の誤りを公然とおかして、それが14年間岩波広辞苑の編者はもちろんのこと、岩波書店の内部からも指摘がない、外部の日本社会一般からも指摘がない、14年間放置されてきたという事実があるわけです。私たちの研究所が、このことを岩波に指摘して、改めるように申し入れてから1年半以上経過し、膨大な時間を費やして話合いをやっているんですが、依然としてなおらないわけです。国名の誤りはなおったんですが、この言葉の意味が誤りだと、明記しろということを認めないわけです。次にいかにばかげているかという例を二、三申しあげますと、約10万くらいの在日朝鮮人の子弟が現在日本の公立学校で勉強をしています。そこの教師たちに会って、あなた方は在日朝鮮人を対等なかたちで扱っていないのではないかという趣旨の質問をしたとします。ほとんどの教師諸君が、とんでもないと、日本人と差別せず平等に扱っているという回答がかえってくるんです。これは私の想像なんですが私は教師じゃありませんから、よくわかりませんけれども、白人の子弟が自分の教室に現われたならば、その教師は、あるいはそこの学校の校長は、顔を見た瞬間に、これは日本人ではないと、それなのにこの子供が日本人を教育する日本語学校に来てどうするんだろうと、親は何を考えているんだろうという疑問がとっさに浮ぶと思うんです。ところが、朝鮮人の子弟については疑問がまったく浮んでこないどころではなく、逆に日本人と同じに教育していることが差別ではないという感情、おそらく圧倒的な教師諸君が考えているところが本法廷でもしばしばいろんな人が指摘しているように、朝鮮人朝鮮人としての教育なり、人格を認めてはじめて我々と対等な関係にあるんで、子供たちは自分が朝鮮人であるということをよく知っているんです。よく知っている、しかし、それは朝鮮というふうな言葉、朝鮮人というふうな扱いによって、自分の周囲がいつでも否定的なものとしてみなされているそれに同化をしているというか、非常に大きな影響を与えている。その内部でもって非常な葛藤や屈折がでてくる、それはキムヒロ自身の意見陳述にも明記されているとおりです。
何もキムヒロ自身だけの経験ではなくて、ほとんど公立学校に存在する在日朝鮮人の子弟が多かれ少なかれそのことを感じておる、人格を全面的に否定されるわけですから、しかも否定している側は、人格を否定することが対等な扱いであるというばかげた認識をもっているわけです。こういう教育環境の中で教育されている子弟たちが腹を立てない、矛盾を感じないなどということはあり得ない、したがってまじめに学校に行くなんて気持にはならないわけです。ならない朝鮮人の子弟、子供はまじめに学校に来ない、すぐ非行化する、ものを取る、どうしようもない、こういう関係で朝鮮人の子弟の認識がはじまるわけです。こういうことがなんの不思議もなく戦後27年間、いや、これからかなり長期に渡って継続されるであろうということが今、日本の現状です。さらにそうい教師、および親たちに教育される小学校の子供たちがどのような認識をもつかということです。これは数年前に、ある中学の教師が調査をしたことなんですが、小学校の高学年に対して朝鮮についてどう思うかというアンケートをとったわけです。昔朝鮮は日本の領土だったが、戦争に日本が負けたので取られてしまった、まったく朝鮮はずうずうしい、そしてがめつい、それに朝鮮人は日本に住みついている、これはますますがめつい、朝鮮は日本の領土だったのに独立したので日本は狭くなったのです。だから日本の子供は遊び場所が少ないのです。朝鮮はあまりすきな国でない、李ラインを少しでもおかすと警備艇が来て漁船をつかまえてしまう、まったく朝鮮はいやな国だと、テレビで見ると朝鮮は日本より随分おくれているなあと思う、朝鮮の人々はどんな生活をしているか知りたいと思う、もし僕が朝鮮人だったらいやだなあと思うと、これに類似するような調査はいくらでも例をあげることができます。日本人の朝鮮認識というのは、いや間違っているとか、ゆがんでいるとか言われています。しかし、現に戦後二十何年間私たちは植民地をかたちとしてもっていないわけです。失なったわけなんです。物的基盤を現象として失なってしまったにもかかわらず、朝鮮および朝鮮人に対するこのような認識がものすごい勢いで日本社会の中で再生産されてきている。そのことは、私はたまたま教師の例を話にしているんですが、これは教師は、いうまでもなく圧倒的な日本人が私がここで紹介した認識をもって、つまり子供たち、兄弟たちに接しておる、そのことが再生産をしている、誤った朝鮮観を再生産している、こういうふうなことだろうと思います。そこでそのような日本人の朝鮮認識というふうなものが、いわば一般的に存在するわけですね。権力をもたない人たち、治安当局はじめ権力をもっている人たちの中では、さきほど申しあげたような朝鮮人認識が支配をしていると、そうでない人たちの中では、今言ったような現象が支配しているというふうなことが言えると思います。

山根弁護人 そういうことは治安当局の朝鮮人認識と日本社会一般の朝鮮、あるいは朝鮮人認識とはまったく同じであるということが言えるということなんでしょうか。

証人 そこらへんは、かなりきちんと説明しておったほうがいいように思われるんですが、本質的にはそう違わないだろうと思います。ただ治安をにぎっておるというか、つまり権力をもっている人たちの一定のはたす役割と、そうでないまあ、我々の地域社会で床屋をやっているとか、さかなを売っているとか、野菜、くだものを売っているとか、そういったような人たち、あるいは働いている人たち、社会的にはたす役割が違うと思うんです、同じ認識をもっておってもね、そこは混同することはできないであろうと思います。たいへん典型的な例があるんで一、二紹介しますと、こういうことなんです。かつてよど号事件なるものがおきました。私はうちにふろがございませんので近くの銭湯に行ったわけです。お得意の脱衣場で服を脱いでおったら、隣りの女湯の脱衣場から、大きな声で朝鮮人がああいうことをやるんだったらわかるけれども、日本人が飛行機をかっぱらうことはないと、中年のおばちゃんの声が、がんがん聞こえてくる、そういうような、いわば日本人の朝鮮人に対する朝鮮認識が骨肉化している。しかし、この中年のおばちゃんと私は治安当局のあらわな蔑視観というふうなものは本質的においては同じだと思うんですが、社会的にはたす役割は違うんで、もし警察官なら警察官が特定の朝鮮人を家宅捜査をするとか、あるいは逮捕するとか、何か行動をおこすとき、そういう認識をもった地域社会のおじさんなり、おばさんなりが、その警察官の行為に協力することはあっても反対することはないだろうと、こういう関係だろうと思うんです。それからもう一つは70年の6月5日に、警視庁当局は、総武線沿線の日本人高等学校十数校に対して、6月の6日に朝鮮人高校生たちが総武線各駅で、日本の学生を襲撃するから、各高等学校は注意せよという通報を流したんです。実際には襲撃なんかまったくなかったわけです。問題なのは警視庁から通報を受けた各高等学校の対応の仕方です。ある学校では緊急の職員会議をもち、授業の短縮がなされた、ある学校では、父兄のほうから学校を休校して欲しいという要請が学校に申しでられる、ある学校では、それはたいへんだということで、先生が二人一組になって学校から駅の間をパトロールする、これら十数校全体として騒然たる雰囲気が作りだされたわけです。この話の中で、私がたいへん驚きをもったことは、なぜその通報を受けた高校の校長なり、職員の諸君が具体的に特定されておる朝鮮高校に対して、事実かどうかという確認をしなかったかということなんですね、していないんです、どこの学校も。そのような問題があるとすれば、当然自分たちの生徒問題があるわけです。その生徒たちについて、どのような教育的な措置をとったのか、まったくとっていないわけです。ほとんどが警視庁情報はあり得ることなんだという前提にたって対応したということなんですね。
どういうことが言えるかと申しますと、デマの情報を流す警視庁というのは許せない存在だと思います、しかしながら、デマ情報を受けた側が、まったく無批判にあり得ることだという前提にたって対応をしたと、つまり校長と警視庁のおえら方とは、私ははたす役割は違うと思います、しかしながら朝鮮高校、在日朝鮮人の側から、二つの対応をみておったら、一体警視庁と高校の教師とは、どこが違うか、私、見わけつかないと思うんです。はたす役割は確かに違うけれども、こういう関係の中で実は朝鮮人に対する支配が、不法なことがなされてきたんであろうと、したがって関東大震災などというのは過去のことではないわけです。朝高生が襲撃をする、それはあり得ることだと言って対応します。だから、もし朝鮮人が毒物を投げこんで火をはなって町をうろついているという情報が流されたら、圧倒的に日本人はあり得ることだという前提にたって日本人は対応するということをもののみごとに70年の6月6日に示したという事実です。こういうことがあるわけで、本質的には同じであろう。しかし、社会的にはたす役割が双方で違うけれども、それが相補完しあってね、相互にね、全体としての加害不法なことがやられていることだろうと思います。

山根弁護人 関東大震災のときとなんらかわっていないとおっしゃいましたけれども、関東大震災のときというのは、日本の警察、および日本の自警団と呼ばれる者が、朝鮮人を大虐殺したことをさしているわけですね。

証人 ええ、ですから自警団というかたちをあのときはとったわけですね、関東大震災のときには、今度のときは教師を使ってパトロールするわけですから、それをなんと呼ぶかは別として、本質的には同じようなことがいくらでもあるわけです。現に自警団というものが、朝鮮問題でないにしても他の諸問題については組織されているわけでしょう。ですから、それはまったく同じ発想というか、同じ現象があり得るだろうなどという推定の段階ではなくて、あると断言していいと思います。

山根弁護人 関東大震災のときにも、朝鮮人が暴動を起すというデマは、警視庁から流されたということが、幾多の資料で指摘されておりますけれども。

証人 そのとおりです。

山根弁護人 それをふまえておっしゃっているわけですね。

証人 ええ、そうです。

山根弁護人 そのような日本の権力機構、治安当局、そして日本社会の中におかれている在日朝鮮人は生活、生き方というものは、一体どのような状態に投げこまれているかということについて何かおっしゃっていただきたいと思うんですが。

証人 その前にちょっとふれておきたいことは、ですから権力をもっている側の日本人も、そうでない日本人も共通して言い得ることは、在日朝鮮人が日本にいるんだということは知っているんですね、多くの人が。しかしながら、どうしてかくも多く日本に住むようになったかということを考えてみたことはほとんどないんじゃないでしょうか。それはおそらく加藤検察官にしたって、お三人の裁判官にしたって、なぜこんなに、70万しか在日外国人はいませんからね、70万の中で61万もどうして朝鮮人が多いのかということを、きちんとお考えになったことはあまりないんじゃなかろうかと、それは裁判官や検察官のみならず、日本人全体がそうではないかということが一つ言えると思います。
もう一つは、さらに在日朝鮮人が、戦前戦後、日本の社会の中でどのような状態におかれ、日本人からどのような扱いを受け、かつそのような中で朝鮮人が何を考えて生きてきているかというふうなことに一度も思いをいたしたことが我々はあるんだろうかということです。これは支配者などは一度もなかろうと思います。ないどころか、文句があったら帰れということですからそうでない日本人も、本当にそのことを自己の生き方にまでひきつけて考えたことがあるだろうか、圧倒的部分はないと思います。ですからそういう社会を、日本社会を当事者である在日朝鮮人がどのように見ておるのか、おそらく言葉で発することができないほど無茶苦茶な扱いをされているわけです。しかもその扱いを自分たちが、日本人がやっているということを当局はすごくよく見えるんだけれども、日本人がそんなばかげたことをやっていることを自覚しないということも同時にわかるわけです。ほぼ絶望感を感じているんではなかろうかと思いますし、さらに問題なことは、自分が他人を傷つけ、殺しておるというふうなことを自覚し得ないのを痴呆者というんだそうですが、そういう意味では日本の国家、もちろんそうでない人たちもいるわけですが、多くの場合、これは自分が犯罪をおかしているということを自覚しないで生きているわけです。痴呆者の大集団が成立している、その身近でもっともよい例は、本件の検察官の起訴状だと思います。起訴状によればキムヒロは、まったく何の理由もなく88時間寸又峡にたてこもったということになっているわけです。理由を指摘しない、述べないで何を問題にしているかというと、ダイナマイトを爆発させたから何々罪に該当する、ライフルぶっ放したからなんとかに該当する、原因がなくて結果だけを問題にしているわけです。つまり、この検察官の起訴状に集中的にあらわれているように、日本の朝鮮人認識というのは、朝鮮人がなぜどういう理由で日本に住んでおるのか、どんな扱いを受けておるのか、そこで彼らが何を考え、どんなつらい思いで歯ぎしりしているのかまったくわからない、その人たちが結果としておこす言動にだけは、あれこれ評価をする、その端的なものが検察官の起訴状だと思います。そういうふうなおそろしいような状況、文字どおり私は、これこそ犯罪と呼ぶべきことだろうと思います。そういう社会の中に朝鮮人が、法律などに違反せずに、一見何ごともないように生活しておる、この生活している朝鮮人のエネルギーと理性は、とうてい私どもの理解することのできないすごいものだと思います。とにかくすさまじい状況の中で矛盾にみちた法律にしばりつけられて、それにとにもかくにも抵触しないで生きていく、その本当に理性たるやおそるべきものだと思う。よく日本人でしたり顔で確かに差別はある、朝鮮人に対する差別はある、だからあのような生き方しかなかったんだというニュアンスの発言をキムヒロはしているが、それはおかしいと、それなら在日朝鮮人の全部が彼と同じ生き方をするはずだと、だから彼の主張は率直に納得しがたいものがあるというようなことを書いている人がありますし、私自身もしばしば耳にしております。私はこういう日本人にいつでも次のような質問をします。もしそういうあなたが、彼と同じ状態にたたされたならばどうするか、10人が10人ともほとんど答えることができません。私も答えることができないわけです。このようなすさまじい状況の中にたたされておっていわゆる在日朝鮮人の犯罪率が、現在のような程度でとどまっているということは、在日朝鮮人がどんなにかすぐれた資質をもっているという証明以外の何ものでもないと、私は思っています。日本人にくらべて犯罪率が多いから彼らはだめなんだというとんでもない事実誤認をやっているわけです。そんなばかなことを言っている人間に、それならば、キムヒロならばキムヒロの生いたち、状況にたたされたとき、君はどうするかと聞かれて、なんら答えることができないやつが、彼の主張というのは、いわば犯罪の合理化であるような非難をする。こういうふうに私は考えております。ただし、同じ条件にいる在日朝鮮人から、さきのような主張、つまり差別や迫害があったからあのような生き方しかなかったというのはおかしいという意見にキムヒロは答えなければならないと思います。その点は今後の生き方をきめる重大なポイントであると私は考えております。したがって是非彼自身の口から、このことについて意見を聞きたいと希望します。以上が質問の回答です。

金嬉老裁判証言集〜佐藤勝巳(前編)

元日本朝鮮研究所事務局長で『朝鮮研究』編集長も務めた佐藤勝巳(1929年〜2013年)は晩年、救う会北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)の初代会長を務める一方で金嬉老を非難するようなコメントも残したようだ。

それでは金嬉老裁判当時は佐藤勝巳はどのような発言をしていたのかを裁判の証言で確認してみたい。



1972年1月18日
証人 佐藤勝巳
年令 42年
職業 研究者
住居 (略)


速記録

山根二郎弁護人 佐藤さんは特別弁護人として、ここのこの裁判で終始かかわっておられますので、くわしいことはおたずねしませんけれども、佐藤さんの現在の主たるお仕事は何になるわけでしょうか。

証人 朝鮮問題を研究しているということでしょうね。

山根弁護人 それは一定の機関といいますか、研究所というところですね。

証人 ええ、日本朝鮮研究所。

山根弁護人 日本朝鮮研究所では、いつごろから仕事をなさっているんでしょうか。

証人 65年の8月ころでしょうか、そこの事務局長になったわけです。

山根弁護人 現在もそうですか。

証人 ええ。

山根弁護人 おもな著書、あるいは著作物をおっしゃっていただきたいと思いますが。

証人 たいしたものではないんですが、『在日朝鮮人の諸問題』という本があります。それから『朝鮮統一への胎動』という本がこれは共著ですがあります。著作物といえばそんなところで、多少それとは関連するところでは、自分のところの研究所の機関誌の編集責任者、これを四年くらいですか、やっております。

山根弁護人 なんという機関誌ですか。

証人 『朝鮮研究』。

山根弁護人 佐藤さんは朝鮮問題にかかわれるようになってから、何年くらいになるでしょうか。

証人 1957年ころからですから、かれこれ15年くらい。

山根弁護人 どういうことから朝鮮問題の研究にかかわられるようになったんでしょうか。

証人 57年、58年ころというのは、在日朝鮮人が、朝鮮民主主義人民共和国に帰国をしたいと、こういうふうな要望が全国で澎湃としておきてきて、それが日本人の若干の人たちにも運動協力をする、して欲しいという要請があって、当時私はある団体のこれは商業関係なんですけれども、団体の役員なんかしておりまして、そこの渉外関係の役職にあったりして、在日朝鮮人の人たちと接触をもつようになりました。したがって研究というよりも、以後ずっとそういう関係をもってくるんですが、むしろ、65年までは文字どおり運動に関係しておったわけです。65年から今の研究所の事務局長としてなるわけで、それからでしょうね。研究というのは何なのか、自分でもよくわからないんですが、それらしい機関に勤めましたから、何かやっていると、こういうことでしょう。

山根弁護人 運動にはいられて、さらに研究活動をはじめるということになった佐藤さんの契機とでもいったものは何でしょうか。

証人 朝鮮問題にかかわるようになった契機というのは、きわめて偶然的な要素が多いわけです。何か立派な大義名分があるなどということではありません。たまたまさきほど話しました商業団体の役員におって、そこの渉外関係の仕事を、役職をしておって、朝鮮人との接触をもつようになったということですから、そこからあと、いろんな変化はあるわけですけれども、契機というのは聞かれれば偶然的だということになると思います。

山根弁護人 偶然にはいられて今日まで朝鮮問題といいますか、あるいは在日朝鮮人問題に終始かかわられてきたということはなぜなんでしょうか。

証人 そういう質問をよくされるんですけれども、聞かれるわけですねえ。なんかうまくそこら一言では表現できないんで、当初は何がなんだかわからないでやっておったんですが、二、三年たちますと、なんかこの問題というのは、非常に重要なんじゃないかなということを強烈なかたちでおしえてくれたのは日本人だったわけです。それは私が明けても暮れても在日朝鮮人問題であるとか、その他朝鮮のことを言っているわけです。とりわけ61年、2年というのは、日韓会談が当時いろいろ問題になってきたときで、道なんか歩いていますと、向こうから知合いが来る、向こうから朝鮮が歩いてきた、あるいは日韓会談が歩いて来たということを冗談で友達が言うわけです。近ごろお前ニンニクくさくなったなというようなことを、顔までも朝鮮人に似てきたぞというようなことをそれがほとんど冗談というかたち、半ば冗談というかたちで発せられる、ところが実際に私の考えから、これこれしかじかのことでもって集会なり、なんなりをやって欲しいということを団体なり個人にするんですが、ほとんど絶対という言葉を使ってもいいくらいなんですが、応じてくれない、そういうのを見ておりまして、なぜこれほどまでにかたくなに朝鮮問題を拒絶するのかと、それはかつて朝鮮を植民地支配をしてきた人たち、ないしは朝鮮人というのは犯罪者なんだという認識をしている人ならばそれなりにわかるわけです。ところが口を開けば世の中をかえなけりゃいかんとか、民主主義だとか、はちの頭だとか言っているような諸君が、非常に拒絶反応に近い態度を示す、そういうものに接して、なぜなんだろうということをいやおうなしに考えざるを得なかったし、勉強せざるを得なかった、そういうことが60年ころから、後半から65年くらいまでにずっと続いてきた。そのほかいろんな要素があるんですけれども、とにかくなんかやっているうちに今日までになったと、こういうことですね。

山根弁護人 そういう過程の中で、在日朝鮮人問題というんですか、さらに広く言えば朝鮮問題ということになるかとも思いますけれども、何がもっとも大きな問題であるというように佐藤さんは感じましたか。

証人 いろいろあります。非常にたくさん問題はあると思うんですが、限って何が問題だというふうに言われますと、それに答えるなら、全体として日本人は、朝鮮問題ないし、在日朝鮮人問題についてはそれはいろいろ人によって違いはあるわけですけれども、全体の総体、トータルに言うならば、ほとんど何も知っていないんではないかと、無知によっておおわれておるということが言えると思います。その中で、特に、では具体的になんだと言われますとやっぱり日本の警察官を中心にしての治安当局の朝鮮人認識これは絶対に問題だと思います。この人たちは、私は今無知だという言い方をしたんですが、治安当局ないしは警察官というのは無知ではないんです。知識ということではたいへんな知識をもっている、多少具体例を申しあげますと、1952年から、警察は毎年全国から警察官を四十数名、東京の中野の警察学校に集めて、半年間の朝鮮語の教育をします。そのうちの約半数、これは成績のいい人たちだろうと思うんですが、選抜をしまして、天理市にある天理大学朝鮮語学科に専科生として送りこんでいます。一年間連日朝鮮語の教育をさせるわけです。この一年間の教育をおえてでてまいりますと、普通大学四年おって、朝鮮語学科におった学生よりも、はるかに朝鮮語が堪能になって卒業してくる、しかも技術者ということで二号俸給料があがるわけです。この人たちが、全国の在日朝鮮人が多く居住しているところに配置されています。52年に第一回生がはじめて53年に卒業をするわけです。70年の春までに18回、360名が卒業をしております。そのことを私たちのほうが問題にしましたところ、天理大は70年の春から専科生の受入れを中止しました。現在、東京の警察学校でやってます。しかし、そこを卒業した人たちは360名、警察学校どまりの警官を含めますとサンフランシスコ条約発効以降約700名、そうしますと在日朝鮮人約61万ですから、朝鮮人1,000名に対して、朝鮮語がきわめて堪能と思われる警察官が1,000人に一人の割合で全国に配置されているということです。警察官がなぜかくも熱心に学ぶのか、警察官ではなくて、警察機構がかくも熱心に朝鮮語をやるのかということです。これはいうまでもないことですが、在日朝鮮人を支配する、管理をする、そのために朝鮮語の修得に異常なまでに熱心である、こういうことをやっておるわけです。これは本件でも非常に問題になっていることですが、小泉刑事なる男が、キムヒロ、敬称略しますが、キムヒロに向かって、つまり侮辱的な言辞をろうした、私が15年間に見聞した限りにおいては、あのようなことは決して目新しいことではない。日常普段どこでもほとんどのところで警察官が言っていることです。ときによっては表現は違いますけれども、大体において、在日朝鮮人ごときものが日本ででかい顔をしているなんてのは許せない、彼らは常に犯罪や騒ぎをおこして日本社会に迷惑をかけておると、文句があったら自分の国に帰りゃいいじゃないかと、帰らないで日本におるんだったら我々の言うことを聞け、我々の法秩序にしたがえと、そのために今申しあげたような徹底的な朝鮮語の修得をやっておると、こういうことです。ですから今申しあげましたことを要約するならば、治安当局の朝鮮人認識というのは、ほとんどが朝鮮人というのは犯罪者だと、ないしはそれになり得る存在、したがって絶えず徒党を組み治安を乱すと、こういう認識のもとで今のような全国に朝鮮語外事警察に配置しておると、管理を強力に推進しておると、このことが、最後のほうで話をするんですが、このことがなんとしても問題であろうと、このような認識ですね、それが一つなんです。

山根弁護人 そこで佐藤さんは、そのような治安当局の在日朝鮮人認識というものが根本的に間違っているとお考えになるわけですね。

証人 もちろんです。

山根弁護人 しかし、なぜ治安当局はそのように在日朝鮮人をとらえるんでしょうか。

証人 それは理由は単純ではないと思うんですが、関東大震災のときの状況というものが非常に端的に示していると思うんですが、つまり、ものすごい何か天災でもなんでもかまわないんだけれども、ショッキングな事件が、ばあんと起きたときに、社会不安、暴動に類することが発生するんではないかというふうに考えるのは支配者の常です。その場合にだれがそのような行動をおこすであろうかということがあるわけです。その場合だれがおこすかという想定をするときに、普段に警察官に対してかなり敵意をもっている人たちですね、それから警察官なり治安当局が普段に徹底的に抑圧している人たち、この人たちが必ずこと起きたならば反撃してくるであろうと、こういう認識を普遍的にもつと思います。支配者の心理として、そういうことがあって在日朝鮮人の場合は、これは戦後などという生やさしいことではなくて、戦前から、本法廷でもいろいろな人が述べているように、すさまじい抑圧と弾圧をやってきた、それに対して朝鮮人がどのような対応の仕方をしてきたかというふうなことは、僕らにはわからないけれども、当局には非常によくわかるわけです。ですから治安当局が、この人たちというのは、日本の社会に敵意をもっておる、自分たちのことはたなに上げてね、そういうふうなしかもいつ自分たちがやられるかわからないという恐怖心みたいなものをいつでももっている、そういう関係が、実は一年や二年ではなくて、いわば日本近代100年に渡って続いてきておりますから、その中で支配を受ける側の在日朝鮮人なり、朝鮮人のほうでも、まああとで差別のところでふれたいと思うんですけれども、非常な人間性の破壊がなされていきますから、いわばそれが一見犯罪というようなかたちであらわれてくる、またそいつを力で弾圧し、押さえこんでいくという悪循環をずうっと近代100年に渡って繰り返してきたと、彼らの目から見て、日本人に比較して朝鮮人というのは犯罪者が多い、政治的にがたがた騒ぐやつらが多い、現象としてはそううつるわけです。そういうつまり近代の長い歴史の中で、差別と迫害支配者と被支配者の関係の中で、つまり治安当局者は在日朝鮮人を犯罪視すると、こういうかたちで生まれてきた。

金嬉老裁判証言集〜山本リエさん(後編)

山根弁護人 いやな気持というのは、どういうことだというように山本さん聞きましたか。つかまったのがたまらないということをいやな気持という表現でしているということでしょうか。

証人 あとで聞くと伊藤さんは、朝鮮人というものは差別されているし、自分たちの子供のころも差別されている子供たちを見ていたし、小学校時代も見ていたし、金嬉老が言っていたこと、確かにそういう差別が現代の社会にもあると。あれはまともなことをいっているんだから、ともかく警察にあやまらせたら、自分で自決するといっていたのにもかかわらず、ああいう形で警察につかまったということは、自分自身、人質といわれた自分らも、私のこれは解釈になるんですけれども、警察は本当に金嬉老が人質にしていたとあの時いっていたが、警察が金嬉老を逮捕するために“人質”をたてに使ってあそこで、88時間という時間をかせいで人質にしていたのではないかということを、私は非常に強く感じて矛盾をもったんです。

山根弁護人 警察が旅館に泊まっていた人たちを人質に仕立てあげることによって、金嬉老の逮捕をねらうというようにも思われるということですか。

証人 ええ、私はそうとれたんです。

山根弁護人 それぞれの人に会って、そのような印象ももったということですか。

証人 ええ。

山根弁護人 そのように全部で七人の方を長野県から、岐阜県、愛知県、あっちこっちたずね歩かれたということをなさって、ふじみ屋旅館の宿泊者に会われたわけですけれども、そういうことを通じて、最初そういうところをたずねて、いろいろのことを究明しようと思ったときと、会われたあと発見なり、いろんなことがあったと思うんですが、それはどういうことになるんでしょうか。というのは山本さんがこういった人たちをたずね歩かれるのには、人質ではなかったのではないかもしれないという気持があったわけですか。

証人 はじめはわからないですね。一人ひとりをたずねていく間に発見していくわけですね。はじめはマスコミ、新聞のあれが非常に印象に残っておりますし、『週刊朝日』とか、一番週刊誌でも良心的に書いているといわれる『週刊朝日』あたりなんかを読んでもおかしいので、私なりの真実というものが、一言ではちょっとここではいえないような気がしますけれども、たとえば金嬉老が、いわゆるあそこで、ふじみ屋旅館で訴えた問題というのは、彼自身が底辺から生きてきたし、日本人の人質といわれた肉体労働者、あの宿泊者たち、その人たちが非常に私自身も体験してきた、底辺からあがってきたそういう人たちでもあったし、そういう人たちが在日朝鮮人のひとりである金嬉老と、あそこで対応したとき、火花をちらしたということがあったのかどうか。

山根弁護人 火花をちらしたというのはどういうことですか。

証人 これはやはり加害者の立場にある日本の民衆というものが、やっぱし在日朝鮮人の被害者である金嬉老と、そこで連帯していくというか、その萌芽みたいなものが、あそこで生まれるものが何かあったのかどうか。

山根弁護人 人間的な触れあいみたいなものが。

証人 ええ。

山根弁護人 そういうものが生まれていたと。

証人 ええ、そういうようなものを感じましたし。

山根弁護人 そういう全部で七人の方にお会いになって、そういうものがふじみ屋旅館にあったんじゃないかという印象を受けられたわけですか。

証人 ええ、あそこでのいわゆる“人質”の人たちというのは、ある意味では私たち日本人の分身ではないかというそういうようなことも考えたり、朝鮮人と日本人ということの関係で、本当にこれから一つの連帯の糸口みたいなものが見つかるんだったら、最底辺の人たち、そこからその萌芽がでてくるんじゃないかということが、真実ということにつらなるかもしれないんですけれども。

山根弁護人 もし、金嬉老が旅館の人たちを脅迫なんかしていなかったら、なぜいたのかと、非常に不可解だという受取り方を一般にはするんじゃないかと思われるわけですね。

証人 (うなずく)

山根弁護人 しかし、山本さんがそれぞれの方に会われて、いろいろお話うかがってみますと、伊藤Tさんはつかまっていやな気持がしたというし、いやな気持というのは何か、どういう言葉でいったらいいか、つかまってしまったことが非常にたまらないという気持をいやな気持というように表現しているようにとれるわけですが。

証人 そうです。

山根弁護人 なぜそういうことになるのかということを、山本さんは、自分の生きてきた境遇といいますか、体験といいますか、それで結局理解できたんでしょうか。そういうことはまったく可能なんだという発見にいたったのかどうか。

証人 やはり日本の民衆というのは、常に最底辺で一つの日本の支配権力というか、そういう支配階級に圧迫され続けて生きてきたし、やはり警察というものに対しても、ある意味では昔から敬遠していますし、それでも民衆は警察といえば、信頼したいと思うし、結果的には、あそこで自分らをも裏切られたというか、裏切ったというか、そういう警察の態度というか、国家権力の警察の態度というか、そういうようなわなをまざまざと見せつけられたというか、そういうふうにもとれます。

山根弁護人 人質といわれていた旅館の宿泊者が、警察やマスコミによって、自分も裏切られたと感じた怒りみたいなものをもっているんじゃないかと思われるということですか。そうお感じになったということですか。

証人 ええ。

山根弁護人 それはなんだとお考えになりますか。おどかされたとか、なんかしたじゃなくて、そこにとどまり続けたのはどういうところからでしょうか。

証人 それはやはり金嬉老の、あのときの民族差別の訴え、警察でのあのような謝罪要求というような形は、実際に彼らもわかるし、わかるというのは、ある一つの自分たちの日常的体験の中から、見たり聞いたりいろんな形で、見えない空間の中での圧迫みたいなもの、そういうようないろんなところから考えていって、ある意味では彼らは見えないバリケードになっていたのではないかと思います。だからあのとき金嬉老がテレビという、日本のすみずみまで設置されているあのテレビで民族差別を訴えたとき、在日朝鮮人60万人の一人として訴えたこと、そういうことの問題、英雄的というか、英雄視した記事も見たんですけれども、それを本当に彼らが金嬉老の光の部分を照す影の部分をを支えた、というような形である一体化した共感を覚え、あそこでの闘いの姿勢の糸口みたいなものがあったんじゃないかと思います。

山根弁護人 そういう国民意識というものは、山本さんの自分が生きてきた境遇なりなんかを通じて、そういうものをとおして、なんか確信もってそういう認識に到達したということなんでしょうか。

証人 そういうことですね。

山根弁護人 特に何か言い残されたことがありますか。

証人 伊藤さんのいわれた中で、朝鮮人のことなんですけれども、金嬉老のいっていたことに対して、やはり朝鮮人の差別というものを非常に小さいときから、自分たちの名古屋の町で差別されている友達を見ているし、本当に彼のいうことはまともなことをいっている。確かに差別は現在もあるし、今もずっと続いているし、小さいときからあんなにいじめぬかれれば、そういうことになるのはあたりまえだといってました。そこで、私、一つ差別のことでいわせてもらいますと、私が金嬉老と同世代くらいに育って考えるのは、やはり私が遠州地方の農村に働いていた、そのころ朝鮮人が町から下肥の車を引いて、麦畑なんかにかけているんですね。そういうときに私自身も12歳ころに他人の家で下肥をかつがされていたわけですけれども、朝鮮人に対して、おとなと同じように蔑視のまなざしで見ていたということ、そういうことは確かですし、そういう自分自身というものが、なぜそうなったかということ、そのずっとあとになってからわかるわけですけれども、日本の教育とか、明治以来百年の資本主義の世の中で、文教政策みたいなものが非常にわざわいしたんじゃないかということを考えます。私は最近、朝鮮人の資料関係の本をカバーなしで小さな食堂だとかそば屋さんあたりで、机において、注文を頼むときなど、地方から出身したと思われるいわゆる庶民の店員さんとか、ボーイさんが、その朝鮮の本のタイトルを見ただけで、私の顔とタイトルとをにらみ合わせて、いやな、変な目で、やっぱり蔑視のまなざしを向けるんですね。だから本当に日本人というのは、現在も、しかも10代の人たちでも朝鮮の本を読んでいてさえも、この人は朝鮮人か、なんだというような蔑視の目があるし、これはおそろしいことだと思っています。
このまなざしというものは、本当に私たちどういうふうにして闘っていったらいいかと思いますし、それから私自身の内部にも、どのように自分が差別されたり、虐待されて、いろんな目に会ってきたといっても、やはり日本人の少女であったし、日本人だし、そこでやっぱり完全に彼らを差別する加害者だったということで自らを裁き続けなければならないんじゃないかというふうに考えます。

山根弁護人 生活環境といいますか、境遇としては在日朝鮮人といいますか、あるいは金嬉老と対比しても、ある面では金嬉老以上の場合もあり得たかもしれないけれども、しかし、それでも在日朝鮮人に対して、差別というものは、さらに深いものだということを今おっしゃったわけでしょうか。

証人 (うなずく)



このダム工事作業員たちは裁判でも検察側証人として証言を行ったようだけど、金嬉老公判対策委員会が発行した証言集に収められているのは弁護側証人の証言だけなので証言内容の全貌は判らない。ただ証言の一部は「金嬉老弁護団最終弁論」の中に引用されていて、それらの引用を読む限りではこの山本リエさんの証言と矛盾するようなものは無いので、山本リエさんの証言は信用して良いと思う。

金嬉老裁判証言集〜山本リエさん(中編)

加藤圭一検察官 裁判長、弁護人に立証趣旨の釈明を求めたいわけですが、監禁状態になかったということを立証されるんでしたら伝聞供述となるんで許されないと考えます。

山根弁護人 何をおっしゃるんですか。そういうことのために質問しているのではありません。それはおわかりになるでしょう。

石見勝四裁判長 そういう立証事項じゃないんですね。

山根弁護人 そうじゃありません。山本証人が、自分のやってきた境遇というものと、金嬉老の事件、金嬉老に共感を覚えて、そしてそこに真実を何かさぐりたいというところから、歩いていって、何を生みだしていくかということなんですね。したがって検察官の公訴事実そのものをめぐっての証人ではありません。では続けて下さい。

証人 私はだから確かに自分で、頭の中から疑問がいろいろとわいてきたわけです。マスコミのことも、あのとき新聞をたくさん読んでいましたから、テレビにもかじりついていたような状態だったから、それで結局いろいろ聞いてみると、外へも始終でて行った人もあるし、自分は寝ていたけれども、次の22日の日なんかは、おふとんをあげて、みんなと話をしていたし、それで食事も食べていたしということをいうし、いろいろ話をしているのが週刊朝日に写真でのっているんですけどといったら、「ええ、いろいろ話しました」というんですね。それで、なんか子供のころのいじめぬかれたことを金嬉老氏が話したり、ともかく警察が、朝鮮人として差別しないように、ちゃんとした人間扱いしろということをしきりと警察に対していっているんだということを自分たちに話したということもいっていました。結局あの人、加藤Kさんがいっていたことは、私から聞いたことでないことの中で、やはりマスコミでもいろいろ民族問題というものをだして、殺人問題にすりかえようとしたなんて書いていたけど、あれは僕たちそばにいて絶対あれはあり得なかった、民族問題をだして、殺人問題を民族問題にすりかえようとしたなんてことは、週刊誌やマスコミが書いていた、あれはやっぱり間違いだったと思う、週刊誌やなんかも随分間違いがあったね、ということを言っていたんです。

山根弁護人 金嬉老がああいう行動にでたのは民族差別問題であったと自分は考えているといったんですか。

証人 ええ。

山根弁護人 そういうことが加藤Kさんに会ったときの会話の内容をなしたわけですか。

証人 ええ、だけど私思うのは、やはりなんというか、まだ一人だけではさっぱりわからないということで。

山根弁護人 さらに次の人に会おうということになるわけですか。

証人 ええ。

山根弁護人 次の人というのが加藤Sさんということになるわけですね。

証人 ええ。

山根弁護人 加藤Sさんに会われたのは、いつ、どこなのでしょうか。

証人 1969年の7月13日だったと思います。あそこは岐阜県の大垣からはいったところの、小さな私鉄に乗って、西濃変電所というところで、発電所を作っているところの現場で、吉岡電気の現場の事務所みたいなところに一人でいまして、そこで会いました。

山根弁護人 それは山の中ですか。

証人 そこはまわりは田んぼでした。

山根弁護人 そこで加藤Sさんは働いていたわけですね。

証人 はい。

山根弁護人 それでどんなところで話がはじまったんでしょうか。

証人 ここでも私は、「事件から一年半近くもたったいま、あなたが一番印象に残っていることはどういうことですか」と、こういうふうに聞きましたら、「マスコミのでたらめなことだね」といって、あのとき、マスコミは随分いろんなことを書いたけれども、「今まで新聞見るのにも、全然疑って見たことはないんだけれども、あんなでたらめを書くとは、ちょっとおどろいた」ということで、ともかく「マスコミを信用できないね」というふうにいって、「あれだけ記者も多く中にはいって、あのそばであれだけのインタビューしていて書いたものが、どうしてあんなふうなでたらめになるんだろうか」というふうなことをいい、「あのときなんとか読めたのは『朝日』くらいのもんで」というふうなことで、うちへ帰って新聞は読んだがといっていました。私は、「加藤さんは四日間いてどんなでしたか」ときいたら「あのときは別に世間が大騒ぎするほどのことじゃなかったんだよ」といい、「中にいたものでなければわからないものがあそこにはあったんだ」というんですね。「彼はともかく最初からやることをいったし、それをやったら死ぬということをいっておったし、わしらもそう思っていたんだ」というふうなことで、恐怖とかなんかそういうことはないみたいな……。

山根弁護人 まるであっけらかんみたいな感じで、それが強い印象ですか。

証人 ええ、そういうふうな調子で、最後まで死ぬということをいっていたということで、「宿の主人にも宿賃を払っていたしなあ」といってました。

山根弁護人 それを話されたのは吉岡電気の工事現場の事務所だったわけですか。

証人 事務所ですね。

山根弁護人 それからさらに寺沢Kさんに会いに行かれるようになるわけですね。

証人 ええ。

山根弁護人 この時点では二人に会われたわけですが、それでどういうように山本さん思われたんですか。

証人 加藤Sさんは「人質のことも、部下の二人が事件のあった次の21日に、名古屋に試験で行かなければいけないんで、実はこの人間は本当のことを話せばわかる人間だなと思って話したら、行ってもいいよと彼はいった」といってました。あのときの市原さんと伊藤さんが、外に出たら、そうしたらNHKのニュースで、人質は恐怖におののいているとかいう放送がかかって、だめだ、あんなことをいってるから、だめだと、連れて来てくれといわれて、ともかく連れに行ったんだと。だから「人質、人質といっても、あのとき間違った放送さえしなければ出られたんだけどなあ」ということをいっておりました。

山根弁護人 それからさらに寺沢Kさんに会われたわけですか。

証人 はい。

山根弁護人 これはいつごろのことでしょうか。

証人 同じ変電所で働いていて、おふろからでてから、二階の宿舎の入口のところで話をしました。

山根弁護人 あんまりこの人とは話をしていないんですか。

証人 あんまり話してないけど、ただ一言いったのは、いわゆる現地のことを本当に知らないで、いろんなことをいったり、書いたりすること、そういうものに対して、実際に僕たちのことを知らないで、勝手なことをいうというようなことに対して、ともかく「あそこにいた人間でなければわからないものがあそこにはあったんだ」と。

山根弁護人 寺沢さんも加藤Sさんと同じようなことをいっていたんですか。

証人 ええ、銃を突きつけられたこともないし恐怖はなかったというんですよね。

山根弁護人 そのあと市原さんにも会われたわけですが、市原さんも同じところですか。

証人 やっぱり同じ宿舎の広い二階ですけど、20畳くらいの部屋で、その奥で彼はテレビを見ていまして、そこでまた一言話をしたんですけれども、彼には私もちょっとしか話さなかったんです。
「何が一番印象に残っているの」ときいたら「マスコミはでたらめだ」といったんです。私が、マスコミだって、下のほうの記者は本当の記事をまとめて書いて、デスクに送っても、上役のデスクのほうでいろいろと文章をなおしたりして、その社にあった新聞にするということはあり得るから、一概にでたらめだといえないんじゃないかといったら、「上役も下役もみんなでたらめだ」といわれました。あのときはいろいろどうだったときいたら、「あれは監禁や人質じゃない」といって、私がどなられたような状態だったんです。「朝鮮人だって人間だい」といわれて、それで私はもう辞退したわけです。

山根弁護人 市原さんはそういうようにおっしゃったわけですか。

証人 はい。

山根弁護人 それからさらに別の人に会われますね。田村さん、小宮さん、伊藤さんという人たちですが、田村さんに会われたのはいつどこでしょうか。

証人 1969年の7月の暑いさかりだったから、26日ですね。岐阜の恵那市というところの市から、ちょっと行ったところの山田旅館という、きたない木賃宿みたいな旅館の中でした。

山根弁護人 田村さんは仕事でそこに泊っていたということですか。

証人 そうですね。中日本基礎工業といってもちっちゃな会社らしくて、大きな一つの土建会社の中に、別の会社名で配属するという形になっているみたいだったんですけど、大勢の中で、中日本基礎工業の人といってもわからなかったんですけどね。それで私が着いたころは午後五時ころだったもんだから、宿の人に聞いたら、まだ仕事から帰っていないというんで、それから六時ころ、がやがやと帰って来て、36度か7度くらいで、ものすごいうだるような、岐阜の山の中では暑かったんですけれども、それでおふろにはいったりし、お食事したあと会いたいといったら、なかなか私のところへ来てくれないので、どうしたんかなあと思ったら、麻雀やりだしたりしちゃって、それで麻雀が一回おわったら行くといって、そのあと八時ころ私のところへ来てくれまして、30分くらい話をしました。

山根弁護人 そこではどんな話になったんでしょうか。

証人 田村さんに「あの事件から一年半近くたつけれども、あなた、あの事件で一番印象に残っていることはどんなふうなことですか」と聞いたら「なんともないねえ」というんですね。おかしいどういうことなんだろうなと思ったんです。「別にときどきああっと思いだすくらいだ」と、こういうふうにいうんですね。あなたはどこに寝ていたんですかときいたら、下の部屋に寝ていたんだと。そのとき新聞なんかには銃を突きつけたとか、私は印象に残っているんで、『週刊朝日』も持って行って、それを見せたりしながらきいたら、いや、あのときは「今晩は、今晩は、今晩はと何回かいっておったんだ」といい、夜中の11時半ごろで、相棒と寝ていたら、「お客さんだな」と思っていて、「宿の主人にはわからないのかなあ、どうして宿の主人出ないのかなあと思っていた」というんですね。それで、あれどっか行っちゃったのかなあと思っていたら、そのうちにまたはいって来て、自分たちの部屋をあけて起きてくれという。鉄砲かついだ人がそこにいるんで狩りの帰りかと思って俺たちはいたんだと。そうしたら清水で人を殺してきたと。ニュースかテレビを見たかというし、そんなもの知らんといったら、弾を見せてくれた。うそでないぞ、人を殺してきたんだから、ともかくやることがあるから、みんなを起こしてくれといわれた、と。それでも本気にしなかったんだけれども、ともかくなんだか知らんけれども起こしに行ったりして、二階に集まったんだといっていました。
それから田村さんが、おもしろいことをいっていたのは、あの人が奥泉に奥さんと子供さん三人を送りかえすことの運転をしたというのも『週刊朝日』に出ていましたし、それで私、聞いたんです。自分が送ってでたんだと。22日っていったか、そうしたらそのとき雪が降っていて、15キロくらいで車を走らして行ったんだけれども、奥泉に警察本部か何かあって、そこで「もう帰らんでもいいぞ」と警官にいわれたというんですね。それで僕だっても帰りたくないような気もしたんだけど、そのうちに「おそいぞおそいぞ」という電話がかかってきて、それでおっかなくなっちゃって、帰りは45キロくらいで突っ走って来たら、雪が降っていて、道が凍っていて、すべっちゃってすごくあわてたと。ともかくおっかないからふじみ屋旅館へ帰って来たら、みんながこたつにはいっていて、仲よくわいわい笑ったり、金嬉老と一緒にみんなで話をしていたんだというんです。「おかしいな、だれが電話かけたんだろうなと思って、だれかかけたか、お前かけたかときいたら、知らんっていうし、金嬉老にかけたかいと聞いたら知らんというし、おかしいなあと思っているんだ」といい、彼はおかしいなあということを非常にいっていて、今でもあの電話がどうもおかしい、それからこわくなって車を運転するのをやめちゃったといっていたのが印象に残ってます。

山根弁護人 おかしいなというのは、金嬉老じゃなくて全然別のものが、そういう工作みたいなことをしたんじゃないかということですね。

証人 ええ、彼は今でも「警察かなあ」ということを一言いって、こういうふうに首をかしげていましたけれどもね。それで、彼に最後に朝鮮人のお友達なんかのことを聞きましたら、お友達はいなかったけど、人夫の中にいたといっていましてね。とてもよく働いてくれて、「仕事が助かるなあ」「はかどるなあ」と、そういうふうにいっていましたけれどもね。

山根弁護人 そのあとが小宮Sさんですね。

証人 ええ。

山根弁護人 この人に会ったのは、いつどこなんでしょうか。

証人 1970年の7月です。横浜の鶴見の友野さんというおうちにいました。そこに住んでいるんですね。奥さんや子供さんと一緒に。彼はもう「忘れちゃった」ということで具体的なことはいってませんでした。別の話になりました。

山根弁護人 伊藤Tさんに会ったのはいつ、どこでですか。

証人 1970年の6月6日、信州の、長野県植科郡の坂城変電所の建設現場ですけれども、そこでお昼休みに会いました。

山根弁護人 それでどんな話になりましたか。

証人 この人にも「事件から二年以上たったんですけれども、あなたが一番印象に残っていることはなんですか」と聞いたんです。そうしたら彼が、「最後のときだね」というんですね。「最後につかまったときだね」というんです。「つかまったとき、なんともいえないいやな気がした」というんですね。いやというか、気の毒というか、なんともいえない気持だったというんですね。ともかく、はじめは死ぬといっていて、「僕らだって、本当に死ぬということをずっと肌で感じていたのに」あんな形でつかまって。

山根弁護人 死ぬというのはだれが。

証人 金嬉老が。金嬉老がともかく警察との謝罪要求がすんだら死ぬんだというふうにいってたのに、つかまったというのが非常になんともいえないいやな気持で気の毒というか、ちょっと言葉にいえないんだという調子でしたね。

金嬉老裁判証言集〜山本リエさん(前編)

アイヌ文化伝承者の山本りえさんについて書いたら山本リエさんのことを思い出した。

山本リエさんは本名山本伸子、ペンネームが山本リエ。1924年頃の生まれと思われる作家で刊行されたものでは以下のような著作がある。

1974年、消えないねずみ花火(新人文学会)
1979年、底辺から差別・抑圧と闘う文学(創樹社)
1982年、金嬉老とオモニ━━そして今(創樹社)
1988年、燃える夕焼け空に立つ時(新人文学会)
1989年、大柿しん[亻に辰]太郎の軌跡・追悼作品集(新人文学会)

1989年以降の消息は不明。「消えないねずみ花火」は金嬉老事件で「人質」とされたダム工事作業員達を訪ねて彼らの証言を集めたものとして一部で注目されたが、もとは山本さんが自ら主宰し発行していた文芸同人誌『新人文学』に連載されたもののようだ。かつて私も「消えないねずみ花火」の単行本を所持していたが残念ながら散失して今は無い。ただ
手許に金嬉老公判対策委員会発行の「金嬉老問題資料集Ⅴ証言集1」(1972年2月15日)が有り、「消えないねずみ花火」に書かれたことの凡そを知ることができる。貴重な証言で、かつ今後の再刊が期待できないので、この中から山本リエさんの証言を再録する。


1971年10月27日
証人
氏名、山本伸
年令、47年
職業、作家
住居、(略)

速記録

山根二郎弁護人 山本さんのご職業は。

証人 作家です。

山根弁護人 雑誌の編集をなさっているんじゃないですか。

証人 はい。いわゆる未組織の店員とか工員とか農民とか、そういう非常に底辺で働く、低賃金の人たちなどと手を結んで、文学集団を作って17年になり、ともかくずうっと雑誌も出版してきております。

山根弁護人 17年間雑誌の編集と、それからご自分の作品を両方なさってきたということですか。

証人 そうですね。

山根弁護人 その文学集団はなんという名称ですか。

証人 新人文学会といいます。

山根弁護人 昭和43年の2月に、いわゆる金嬉老事件と呼ばれるものが発生しましたけれども、山本さんはこの事件のあと寸又峡に行かれたり、あるいは当時マスコミ、あるいは警察などが人質と呼んでいた人たち、当時金嬉老がふじみ屋旅館にたてこもっていたとき、ふじみ屋旅館に宿泊していた人たちを訪問するというようなことをなさいましたね。

証人 はい。

山根弁護人 そのことについてこれからおっしゃっていただきたいと思うんですが、どういうところから金嬉老事件金嬉老が逮捕されたあとですが、そういうような形で関心をもたれたのか、そのへんのところからうかがいたいと思うんですが。

証人 金嬉老事件がおきたときには、やはり大きなショックでした。それというのはやはり日本国家、そして日本人民衆というものが朝鮮人と対置した場合、常に裁かれ、告発される立場にあると思っているからです。それにいわゆる36年間の日本の植民地政策というもの、その中で行なわれてきた日本国家の犯罪というか、いわゆる強制連行の中での犯罪行為、その中で強制労働させられたりした朝鮮人、それはもう日本の歴史の中で、本当に大きな問題として、歴史の犯罪的行為というものがなされてきていたし、私の生まれた静岡県のあっち、こっちの山奥の発電所とか、日本国中の鉄道を敷くにもほとんど朝鮮人の土工とか、現場で働く人たちが、戦時中憲兵の剣のもとに食べるものも食べさせてもらえないで、牛馬以下に酷使され、あるいは殺されたりしながらやってきておりますし、戦後26年たっても、日韓会談がずっととおった今も、民族差別というものをずっといろんな形で朝鮮人はされてきているんだし、ああいうふうなことがおきるのは当然じゃないかと思いました。
私たち新人文学会の中にも、会員で在日朝鮮人がいました。やはり日本名を名乗って職場をさがすわけですね。そういうようなこともありましたし、なかなか私たちともうまくいかなかったし、いろんなこともありました。まあ、そういうことで金嬉老事件がおこったときにはショックだったわけです。

山根弁護人 そういう金嬉老事件からの衝撃が山本さんを寸又峡とか、あるいは人質と当時呼ばれて旅館に泊っていた人たちを克明にたずねて行かれた、その内容が山本さんのおやりになっている新人文学会に三回にわたって、〈金嬉老事件と私〉『消えないねずみ花火』という題で、いろいろ歩かれてみたり、聞いたりしたことを山本さんのお考えを含めて書かれておりますね。

証人 (うなずく)

山根弁護人 そういう金嬉老事件からの衝撃から、さらに、そのように一人で、いろいろ歩かれるというのには、さらに何か契機がおありだったんでしょうか。

証人 ありました。

山根弁護人 それはどういうものであったんでしょうか。

証人 金嬉老事件がおきたところが静岡県であるし、私が生まれたのが、やはり大井川下流の一寒村の貧困な家でありましたし、父が樵で働いていたんですけれども、六つのときに大井川の上流の今は大井川ダムができていますけれども、あの山の中で仕事をしていたときに心臓麻痺で倒れたので、その頃、母は30たらずで未亡人となりまして、三人の幼い子供を育てていくのに、結婚まえまではずっとお屋敷女中みたいなことをやっていた母ですが、大井川の川原の砂利ふるいの土方仕事なんかに出て働きました。一日あのころなんか、私、小学校一年生か二年生でしたけれども、60銭か65銭くらいの日給で、お米が確か30銭くらいだったか、私も一升くらいずつお米を買いにやらされましたけれども、雨が三日か四日降ると、お米を買うお金もなくなったりして、こじきするかなんていったり。あのころ経済恐慌で、日本の昭和の初期ですから、こじきが大井川の鉄橋の下にいっぱいいる話を母から聞かされ、こじきにくれてやるとか、こじきするかということをいわれて、悲しい思いをとてもしたんですね。
結局そういう生活も三、四年で、どうしようもなくて母子ばらばらに暮していくようになったんですけど、私は祖父が代々つかえていた地主の主従関係にある一族の遠州のほうの大地主の家柄のうちへあずけられて、小学校四年生ですけど、そこで働きながら小学校へかよったわけです。そのころ私が育てられた女主人の一族というのは、日本の明治以来の資本主義権力のもとで文教政策をもっともすすめてきた文部大臣だとか、あるいは京都帝国大学の学長だとかをやった一族ですから、非常に身分差別の厳格なしつけをされ、私が正しいことを一言でも言おうとすると、「お前らの身分で」「お前らの身分で」ということで、犬や猫以下にいじめられて、「絶対服従だ」「絶対服従だ」という言葉が常にでてきて、そこであやまらない限りは一時間でも、二時間でもせっかんされました。私は子供でしたけれども井戸にとびこんで大人に抗議しようとか、毒でも入れて殺しちゃおうとか、そういう殺意を感じたけどできないし、結局、逃げたりしましたけど、束縛が続いて、10代をほとんど三軒くらい地主をたらいまわしされました。二軒目のうちなんかは、朝四時ころたたき起こされて、戦時中でしたから、食べるものはくれないし、それこそ夜中の一時、二時ころまで家事労働から山の仕事から農業からやらされて、そういうことをして眠る時間が三時間くらいしかなかったんです。逃げると追いかけられて、何度か逃げたんですけど追いかけられて、何かというと警察にいうというし、お前なんか逃げたっても警察にいえばいつでもつかまるというおどかしなんですね。そういうことをされてきたりしたんです。逃げたといっても子供だから、自分のうちの親戚くらいにしか行けないけれども、私の一族は貧農の小作人ですから、必ず地主の家の命令で私をさがしだすという形になるんです。そうでないと土地を取上げられたり、そういうようなことだったわけです。
そのころ私はそういう差別をされていたのですけれども、当時私と同世代の金嬉老少年が本当のおとうさんをなくして家庭がうまくいかなくて、放浪生活をしていて、そして警察につかまったりした時と重なるわけですね。オイコラ警察の時代ですから、非常に残虐を加えられて、うったり、けったりされたりした。私自身も何かといえば必ず薪でなぐられたり、おしりや横腹を女主人になぐられたり、むすこは下駄で背中をけったり始終されたわけです。
当時、朝鮮人ということでばかにされた金嬉老少年というか、あるいは権禧老少年というか、そういう少年がいたと。そういうことがあって、しかし私は一応戦後平和憲法になってから、この束縛を逃れて、20代の半ばに文学というものを東京にでて学び出し、唯物論的な思想を身につけ新しい文学史観のもとで文学集団を作り、みんなと手を結んで、そういう支配権力の敵に対しては、文学によって追及するんだということで今日まできたんですけど、しかし金嬉老という寸又峡で事件をおこした在日朝鮮人の一人の代表といってもいいかもしれないこの人は、私が文学運動をやってきたそれと同じくらいの年月を刑務所生活しているということを新聞などであのときみまして、これはなんであろうかと、やっぱりこれは前科者という形で、いろんなところへ勤めようとしても、まじめに働こうとしても働けない日本の社会があったというふうなこと、そして朝鮮人という二重の民族差別をされ、そんなことがあってあの寸又峡の事件へと段階がすすんだ。みんくすで稲川組の曽我幸夫ですか、幹部ともう一人を殺したわけですけれども、あの事件はあの事件だ、寸又峡寸又峡の事件だというふうにわけて考えるなんてことはとうてい考えられません。私自身が今文学をやっていることは、生まれたときから、そして虐待されてきた子供のころから、そういうなんていうか、ずっと今日までの全体がかさなっているわけです。彼が39歳で寸又峡で事件をおこしたときは、オギャーと生まれてより39年間の朝鮮人としてのすべてがかさなって一つの血のかたまりのような形になって、憤りとなってああいう行為がなされたんじゃないかという共感、それがあったわけです。

山根弁護人 在日朝鮮人として生きてきた金嬉老の境遇と山本さんの小さいときからの、おとうさんもなくなられて、地主の家で酷使されて、そのようなところで事件をとらえた山本さんさんと非常にそこでかさなるものがあったというわけですね。
証人 (うなずく)

山根弁護人 そういうところから寸又峡をおとずれたわけですか。

証人 (うなずく)

山根弁護人 寸又峡へ行かれたのはいつになるわけですか。

証人 1969年の3月2日の早朝でした。

山根弁護人 いわゆる金嬉老事件の翌年ですね。

証人 そうです。

山根弁護人 そうして人質といわれている金嬉老事件の、ふじみ屋旅館にいた人たちをたずねられだしたのはいつからですか。

証人 一番最初の人は加藤Kさんだったんですけれども、1969年の6月21日ですね。

山根弁護人 6月からいろんな人に会いに行かれたわけですね。結局だれとだれにお会いしたわけでしょうか。

証人 加藤Kさん、それから敬称略さしてもらいます。その次に加藤S、その次に寺沢K、その次に市原K、それから田村N、小宮S、伊藤Tですか。

〚原文では実名フルネームで載っているが、名前はイニシャルのみにした〛

山根弁護人 そうしますと全部で七人ですね。
証人 はい。

山根弁護人 検察官が監禁されて人質であったと主張しているうちの非常に多くの人をたずねられたわけですが、そういう一人一人の人をたずね歩かれたということですね。

証人 (うなずく)

山根弁護人 さきほど山本さんの自分が生きてきた境遇というものと、金嬉老との、金嬉老事件といいますか、そこから明らかになってきました、在日朝鮮人金嬉老の境遇、それがなぜ寸又峡に行ったり、旅館の宿泊者、人質と呼ばれている人たちのところへ行ったりということになったんでしょうか。

証人 一言でいって、これは真実の追及をしなければ、マスコミでさわがれていたけれども、本当にあの裏に何かあるんじゃないか、それは人質といわれた労働者たちというか、出稼ぎで働いているというか、あの人たちが何か真実のカギをにぎっていそうな感じが直感的にしたわけです。

山根弁護人 要するにふじみ屋旅館に滞在していた、マスコミや警察や、あるいは検察官が人質だといっている人たちが、出稼ぎというんですか、労働者であるというところにも、何か自分とつなげて、何か見いだせるんではないか、ということをお考えになったということですか。

証人 そうですね。

山根弁護人 まず事件当時旅館に滞在していた人たちに会ったのは、1969年の6月ですね。加藤Kさんということですが、加藤Kさんとはどこでお会いになったんでしょうか。

証人 名古屋の千種区というところにある加藤さんの自宅なんです。

山根弁護人 そこでどんなことを話されたといいますか、加藤Kさんの家を訪問したときの、さまざまなことをご記憶のあることをおっしゃっていただきたいと思うんですが。

証人 私その日実は、午後六時ころでしたんですけれども、つゆどきで、夕方ものすごいどしゃ降りだったんですね。それで夜行で行って、朝、名古屋に着きまして、名古屋の町で吉岡電気の電話番号調べたりしまして、それで吉岡電気に電話をしてみましたら、ほかの人にも会いたかったんですけれども、岐阜のほうに行ってるとか、信州に行ってるとかいう人があって、寺沢さんとか、市原さんを寮とか会社へたずねたら、その人たちもいなかったし、結局加藤Kさんしか市内にいないみたいなことをいわれまして、それでどしゃ降りの雨の中をリュックをしょって、履いていたズックもぐしゃぐしゃになってしまって、それでやっとたずねあてたんです。そうしたらお留守でいくらベルを押してもでてこなかったんです。もっとも自由にあけられるような形だった門だから、玄関の入口でちょっと待たしてもらって、多分六時半ころはお帰りじゃないかと思って、それで雨宿りして待っていたら、加藤さんが車で、自家用車かなんかでみえまして、そしてはいって来て、この人が加藤Kさんかなと思って、実は私『週刊朝日』の1968年の金嬉老事件の緊急特集という3月8日号でしたか、その号を持っていて、写真に「ライフル魔と人質たち」という見出しで大きく見開きにでている、みんなと語り合っている写真をみて、どれが加藤さんかとにらみながら、「加藤さんですか」ときいたら、「はい」というわけで、「家内も子供も実家へ行っちゃって、きたないけれどもおはいりください」といってくれました。実は東京からこういうふうに来たんですけれどもといったら、「そうですか、どうぞどうぞ」というような調子で、ずぶぬれのズックやら、くつ下を脱いで、居間みたいな、応接間みたいな長椅子へすわって話をしたんです。

山根弁護人 それでどんな話をしたんですか。

証人 内容はやっぱり一年あまりたつ金嬉老事件に対する「一番印象に残っていることはなんですか」と私はたずねたんです。そうしたら、「別になんともないですね」というんですね。「どうってこともないですね」というから、ええー、と思って、私はマスコミの報道がひどく頭にはいっていますから、脅迫されたとか書いていますから、「夢にみたりすることはないですか」ときいたら、「別に見ないですよ。別にそんな恐怖はなかったですからねえ」といって。

アイヌ語継承

9月9日の東京新聞「話題の発掘」欄に『消滅危機アイヌ語継承を』と題した記事がある。この記事は東京新聞のウェブサイトには載ってないので、著作権の問題はあるかも知れないけど此処に書き写して置きます。問題が生じたら削除します。


消滅危機アイヌ語継承を

18日、那覇で言語サミット

昔語りの山本さん訴え

国連教育科学文化機関(ユネスコ)から消滅の危機にあると認定された日本国内の八言語・方言の関係者が集まり、今後の継承などを話し合う「危機的な状況にある言語・方言サミット 沖縄大会」(文化庁主催)が、十八日に那覇市で開かれる。国内で唯一、五段階評価で最も危機的とされたアイヌ語では、アイヌ文化伝承者を目指す北海道白老町の山本りえさん(二八)が「語り」部門で発表する。

山本さんは、大正期のアイヌ文化伝承者知里幸恵さんの著書「アイヌ神謡集」に収録された物語一編を十五分程度、アイヌ語で語る。今年三月に釧路市で開かれたアイヌ文化を紹介する催しで、昔語りをする姿が文化庁の国語調査官の目に留まり、大会への参加を依頼された。
アイヌ民族の山本さんは釧路市阿寒湖畔の出身。祖父はアイヌ文化の普及に尽くした著名なエカシ(長老)の故山本多助さん。十代のころは「アイヌ民族であることをからかわれるなど嫌なこともあった」というが、同じ民族の若者と交流する中で、歌や踊りが持つ「独特のリズム」に魅了された。
札幌大でアイヌ文化などを学び、現在はアイヌ文化振興・研究推進機構(札幌)のアイヌ文化伝承者育成事業の受講生として白老町アイヌ民族博物館を拠点に活動している。「アイヌ語の歌や物語が好きで活動をしており、言葉や文化の理解が広がればうれしい」と意気込む。
大会は昨年十二月、東京・八丈島で初めて開かれた。二回目の今回は危機的な言語や方言の現状について、琉球大と国立国語研究所の研究者が発表するほか、北海道大アイヌ・先住民研究センターの北原次郎太准教授も研究成果を報告する。
ユネスコは二〇〇九年、消滅の危機にある言語を公表した。言語のアイヌ語は最も危機的な「極めて深刻」とランクされた。他の七つはすべて方言で、沖縄の八重山、与那国が二番目に危機的な「重大な危機」、東京の八丈や奄美諸島の奄美、沖縄の沖縄、国頭、宮古が三番目の「危険」だった。



この記事ではアイヌ語以外は方言とされているけど、ユネスコ基準では八言語は全て方言というレベルではなく独立言語であるとされている。